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或る兄弟の絆  作者: KOYU
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23/23

23、雪兎と田奈都

 太奈都の口から発せられたのは、幼い弟のものではない――底知れぬ狂気と威圧を湛えた異形の男の声音だった。

 ハッと息を呑んだ雪兎がその顔を凝視するが、そこにかつての弟の温かい眼差しは微塵も残っていなかった。


「いつまで我に触っている。無礼者が」


 氷のように冷たい宣告とともに、アザゼルは依り代の肉体から凄まじい暴力を放った。手首を掴んでいた雪兎など赤子の手をひねるように放り投げ、地上へと向けて隕石の如く叩き落とす。

 音速を置き去りにするほどのスピードで宮殿の最下層へ急降下していく雪兎の横を、天上へ向かっていたオブスキュア=ゼノンとグラシャ=レジナがかすめる。


「っっ……!」


 グラシャは歯を噛みしめ、地上へと投げ飛ばされていく我が子を救うべく、慌てて後を追って急降下した。


 その間に、オブスキュア=ゼノンはアザゼルのもとへと一直線に飛び上がり、その眼前の空中にピタリと静止する。


「前の大戦の大罪者、アザゼル……なぜ、再びこの世界に這い出てきた……」


 オブスキュアの問いかけに対し、アザゼルは値踏みするような視すらくれず、冷ややかに地上の戦禍を見下ろしている。


「ふん……まだまだだな。この世界には、絶望が圧倒的に足りない」


 吐き捨てるように呟くと、アザゼルはゆっくりと天に向かって片手をかざした。

 瞬間、天を衝く轟音が鳴り響き、世界を飲み込むほどの漆黒の雷雲が頭上の空を瞬く間に覆い尽くしていく。

 ――ズドンッ!!


 次の瞬間、無数の黒い稲妻が阿鼻叫喚の地獄と化した地上へ向かって降り注いだ。逃げ惑う天使や悪魔たちの悲鳴をかき消し、雷撃は建物をもろくも粉砕し、大地に深い亀裂を刻み込んでいく。地上は、文字通りの地獄絵図へと変貌を遂げていた。


「させるか……ッ!」


 激昂したオブスキュアがアザゼルへ向き直り、その周囲に無数の黒い紋章陣を展開する。刹那、弾けるような連射音とともに、おびただしい数の漆黒の砲撃がアザゼルを包み込んだ。

 爆煙が空を焦がし、視界を深い闇が塗りつぶす。オブスキュアは鋭く目を細め、煙の向こうを凝視した。

 やがて爆風が晴れ、あらわになったアザゼルの姿――しかし、その肌には衣類の端かすら焦げておらず、無傷のまま何食わぬ顔で佇んでいた。


「……もう終わりか?」


 侮蔑を込めた声音で言い放つと、アザゼルは右手を天にかざした。頭上の雷雲から猛り狂う雷光がその掌へと吸い込まれ、一振りの「雷の槍」へと凝縮されていく。

 逃げ場のない死の投擲。

 すさまじい気圧を纏って放たれた雷の槍に対し、オブスキュアは咄嗟に幾重もの黒い防壁の紋章陣を展開した。だが、絶対的な破壊神の槍はそれらを紙細工のように次々と突き破っていく。直撃の寸前、オブスキュアの全身全霊を込めた最終防壁が槍を受け止め、大気の底で凄まじい爆発を起こした。

 その暴風に呑まれ、オブスキュアは血を吐きながら地上へと吹き飛ばされていく。


「くっ……!」


 墜落していくオブスキュアの背中。その肩から背中にかけて刻まれた拒絶の刻印はすでに黒く滲みきっており、限界を超えた反動による激しい消耗が、彼を強制的に前線から引き剥がしていた。


 頭上で暴虐の雷雲を従え、滅びゆく世界を冷酷な瞳で見下ろしながら、アザゼルは勝利者の笑みを浮かべる。


「この退屈な世界も、ようやく終わりだな。我が肉体が完全に解放された暁には、あの不遜な魔王を首から引きずり下ろし、この私が新たな王として君臨してくれよう……! ついでに、天上に巣食う臆病者どもも根絶やしにしてくれるわ!」


 自らの野望を紡ぎ、終焉の牢獄の渦へ足を踏み入れようとしたその瞬間――。


「――逃がすかっ!」


 気高き咆哮とともに、背後からグラシャ=レジナが死角を突いて急接近し、アザゼルの首を刎ね飛ばそうと聖剣を振り抜いた。だが、アザゼルは振り返りもせず、最小限の首の傾ぎだけでその必殺の刃を紙一重でかわす。


「まだまだこれからだ……!」


 鬼神の形相で追撃を誓うグラシャの神速の剣閃に呼応するように、背後から地を揺らすほどの速度で雪兎が飛び込んできた。二人の猛攻が、アザゼルを多重の包囲網へと追い立てる。


「太奈都を……返せっ!」


 血走った緋色の瞳に狂気と悲痛を宿し、雪兎の剣劇は加速に加速を重ね、ついにアザゼルの硬質な肌に浅い裂傷を刻み込んだ。


「小賢しい子虫どもが……!」


 不快感を露わにしたアザゼルが全身から凄まじい質量を伴う衝撃波を爆発させる。

 その暴風に弾き飛ばされながらも、雪兎とグラシャは空中で宙返りして体勢を立て直し、再び泥臭く突進した。しかし、アザゼルと彼らの間に突如として無数の黒い紋章陣が連鎖し、暴虐の黒い雷が二人の肉体を容赦なく焼き焦がしていく。

 剣で雷撃を受け流しながら肉薄しようとするが、底知れぬ障壁に阻まれ、なかなか致命的な間合いを詰められない。


---


 その頃、地上の崩壊した宮殿内。


「くっ……!」


 地面に激突したオブスキュアがよろめきながら立ち上がり、再び空へ跳ぼうと身構えた。しかし、その全身を縛る拒絶の刻印は黒く淀み、肉体の許容量が限界を超えていることを告げている。

 動かない体に歯噛みするオブスキュアの背後から、か細くも芯のある声がかけられた。


「オブスキュア=ゼノン……すまないが、あんたに頼みがあるさね……」


 自らの治癒の加護で辛うじて命をつないでいるものの、右脇腹をごっそりと抉られた瀕死の園長が、地に伏したままそう告げた。

 ゼノンは、今にも消え入りそうな命の火を纏う園長に、静かに振り返る……。


---


 頭上の黒い稲妻が世界を引き裂く中、空中の戦場では雪兎とグラシャの決死の攻防がピークに達していた。


「しつこい小蠅どもめ……!」


 業を煮やしたアザゼルが紋章陣の展開速度を限界まで引き上げる。二人が絶対に回避不能な死の格子網を形成し、四方八方から黒い雷が雪兎とグラシャを襲った――その刹那。

 二人の周囲を囲むように、神々しい「白い光の紋章陣」が突如として花開いた。


 咄嗟に地上を見下ろした雪兎とグラシャの目に飛び込んできたのは、崩れかけた宮殿の瓦礫の中で、痛みに顔を歪めながらも天へ向けて両手を掲げ続ける園長の姿だった。


「園長っ!」

「ルミナ……!」


 オブスキュアの「拒絶の力」を一時的に借り受け、自らの崩壊寸前の肉体をその加護で無理やりねじ伏せることで、園長は再びこの最前線へと戻ってきたのだ。


 その直後、オブスキュアもまた雪兎たちの高度へと浮遊してくる。先ほどの敵対関係を記憶している雪兎たちは警戒の色を隠せないが、オブスキュアが明確にアザゼルを敵と見なしていることは明白だった。


「……邪魔をするなよ!」


 グラシャが鋭く牽制の声を飛ばすが、ゼノンは一言も発さず、ただ冷徹にアザゼルへと切っ先を合図する。


 わずかな沈黙を切り裂き、最初に動いたのは雪兎だった。

 爆発的な踏み込みでアザゼルの懐へ飛び込み、二本の剣で十字の斬撃を叩き込む。アザゼルがそれを紙一重でかわすと同時に、グラシャの鋭利な剣閃が追撃の弧を描く。確実に、着実に、アザゼルの身体に新しい傷が増えていく。


 再びアザゼルが威圧の衝撃波を放とうと魔力を練ったその瞬間――。

 雪兎たちの背後に園長の白い光の陣が足場として展開され、踏み台を蹴るように二人の機動力が跳ね上がる。さらに、園長から放たれた極限の『加速付与』が二人を包み込んだ。


 音速のさらに先へと踏み込んだ二人の剣筋が、嵐のようにアザゼルを追い詰めていく。しかし、アザゼルは余裕の笑みを崩さない。

 その全身から黒い雷を纏った瞬間、アザゼル自体が雷光と化し、二人の剣速を完全に凌駕する神速の領域へと突入した。無数の黒い陣が開き、さらなる死の弾幕が雪兎を呑み込もうとする。


 ――その危機を撃ち抜いたのは、オブスキュアだった。


 アザゼルが展開した無数の黒陣に完璧に同調させ、オブスキュアが放った無数の黒い砲撃が敵の雷撃を空中ですべて相殺していく。

 そして、打ち漏らした凶弾が雪兎を襲う刹那、今度は雪兎の足元に純白の光弾陣が現れ、眩い光の砲撃でそれを完全に消し去った。


 園長とオブスキュア――最強の理が、敵と味方の垣根を越えて完璧なシナジーを生み出す。

 雪兎とグラシャの足元には白い紋章陣の足場が無数に連なり、二人は重力を無視した立体機動でアザゼルを四方から蹂躙していく。


「アザゼル、お前のその力の根源ごと……すべてを拒絶する!」


 オブスキュアの怒号とともに、アザゼルが纏っていた雷の奔流が急速にその輝きを失い、霧散していく。アザゼルの速度が目に見えて鈍化したその隙を、雪兎とグラシャが決して見逃すはずがなかった。


「調子に乗るなよ、子虫どもが……ッ!!」


 怒号を響かせたアザゼルが、園長とオブスキュアの頭上に巨大な黒い紋章陣を顕現させ、世界を焼き尽くすほどの超巨大な雷を地表へ落とした。

 その圧倒的な直撃を受け、園長とオブスキュアはついに力尽きるように地上へと沈んでいく。周囲に展開されていたすべての支援陣が霧散した。


 だが、その一瞬の隙――グラシャ=レジナの持つ聖剣が、太陽のごとく赤く、狂おしく光り輝いた。


「我が熱よ、空気を切り裂き……立ちはばかるすべての敵を両断しろ――ッ!」


 全霊を魂ごと叩き込んだ会心の一撃が、アザゼルの強靭な左腕を大きく弾き飛ばす。しかし、その反動の隙を突かれ、アザゼルの右腕による容赦のない、暴力的なまでに激しい鉄槌がグラシャの胴体を直撃し、彼女は血を吐きながら地上へとまっさかさまに吹き飛んでいった。


 ――今だ。


 グラシャが切り開いた唯一にして最大の絶景。その背後から、雪兎の緋色の目が妖しく、激しく狂喜の光を放って姿を現す。

 両腕を大きく開き、無防備に晒されたアザゼルの胸元へ向け、雪兎はすべての感情を乗せた剣を深く、深く突き立てた。


「おれの弟の体から……今すぐ消え去れええぇぇ――ッ!!」


「ぐああっ……! この我が……こんな人間の小虫ごときに……!」


 胸を貫かれた致命傷の前に、アザゼルの肉体が崩壊を始める。絶叫とともにアザゼルの意識が断ち切られ、空を埋め尽くしていた漆黒の雷雲が、まるで嘘のように晴れ渡っていった。


---


 血の色に染まる世界。空も、地上の建物も、人々をも朱色に染め上げ、まるで残酷な血の海に沈んだかのような光景のなかで、雪兎は虚空に浮いたまま、自らの握る剣の切っ先をじっと見つめていた。

 はるか下の地上では、深い傷を負いながらも、多くの天使や悪魔たちが息を呑んで天上の少年を見上げている。大戦の終わりを告げる青空に恐怖を抱く者、微かな希望に胸を震わせる者――その表情は様々だが、誰もが言葉を失っていた。


 雪兎が握る鋭く尖った剣。その刃には、かつて弟であった太奈都が深く突き刺さり、そこから大量の血がとめどなく流れ落ちていた。


 太奈都は死んでしまったのか。ピクリとも動かず、その首は力なくうなだれている。

 雪兎が震える手で弟の頭部へ触れようとしたその時――。


「……雪にい……」


 かそけき声とともに、太奈都がわずかに身じろぎをし、ゆっくりと兄の方へ顔を向けた。


 その瞬間だった。

 太奈都の頭部に生えていた禍々しい異形の角が、背中の醜い翼が、音を立ててボロボロと崩れ落ちていく。赤黒く変色していた肌は急速にその毒々しさを失い、本来の瑞々しい人間の肌色へと戻っていく。


 雪兎がそっと剣を引き抜くと、太奈都の胸に突き刺さっていた『奈落の黒曜』が音を立てて粉々に砕け散った。

 先ほどまで血だらけだと思っていたものは、太奈都の肉体を呪縛していた異形の外皮や呪いの残滓が形を失って流れ落ちたものにすぎなかった。


 ――園長が密かに用意してくれていた『退魔の剣』。それは、命を奪うための刃ではなく、太奈都の精神を縛り付けていた嫉妬の呪いだけを正確に断ち切るための奇跡の剣だったのだ。


 久しぶりにまともに見つめ合う兄弟の瞳。太奈都の顔立ちは、かつての愛くるしい弟の面影を完全にり取り戻していた。脳裏にフラッシュバックする悪夢のような記憶の断片に、太奈都は息を詰まらせる。


「雪にい……おれ……おれ、一体……ごめんなさい……!」


 大粒の涙が、太奈都の目からとめどなく溢れ出す。

 その生きていた弟の温もりを確かめるように、雪兎は満面に最高の微笑みを浮かべて頷いた。


「バカだな……お前が謝ることじゃない。さあ、帰ろう……おれたちの家に」


 優しく声をかけながら、雪兎は崩れかけた天使の翼の残り火を頼りに、ぐったりとした太奈都をしっかりと抱き寄せ、地上へ降り立とうとした――その刹那。


 太奈都の背後の空間が歪み、不気味な笑みをたたえたエンヴィア=ジラールの影が突如として現れた。


「おのれ……! よくもアザゼル様を!」


 意識を取り戻したばかりで完全に無防備になっていた太奈都の背後。殺意の爪がその心臓を貫こうと迫る。

 ――考えるより早く、雪兎の身体が動いていた。


 我が身を盾にして太奈都を抱き締めた雪兎の背中に、エンヴィアの鋭い腕が容赦なく突き刺さる。

 無情にも、その爪先は雪兎の胸元――心臓を正確に貫いていた。


「えっ……!?」


 何が起きたのか瞬時に理解できず、虚ろな目を見開いたまま、太奈都の身体は支えを失って地上へ向けて落下していく。


 それと同時に、地上では、今回の凄惨な大戦を自らの私利私欲のために引き起こしたエンヴィアに対する怒りが頂点に達し、多くの天使や悪魔たちが猛り狂う怒声を上げながら空へと飛び立ってきた。


 エンヴィアは雪兎の胸から血濡れた手を引き抜き、その掌に握り締めた「雪兎の心臓」を高々と掲げると、嘲笑うように終焉の牢獄の消えゆく渦へと身をひるがえした。

 そして、落下していく太奈都へ向け、冷酷な宣告を叩きつける。


「兄を救いたくば……私を追いかけてきなさい」


 妖しい笑みを残し、エンヴィアはそのまま渦のなかに消えていく。

 同時に、天上界に突き刺さっていた二本の鍵が抜け落ち、重力に従って地面へと虚しく落下すると同時に、空の上の終焉の牢獄の渦は跡形もなく消え去った。


 その場に遺された雪兎の身体は、天使の純白の翼から急速に人の姿へと戻っていく。だが、エンヴィアの呪いの魔力がその肉体を蝕み、足元から爪先にかけて、そして全身へと、ガラス細工のように無残な「石化」が広がっていった。

 生命の光を失った石の彫像と化した雪兎の肉体は、そのまま重力に引かれ、地上へと落下していく。


「雪にい……っ! 嫌だ……にいちゃああああん――ッ!!」


 引き裂かれるような太奈都の悲痛な叫び声と止めどない涙だけが、冷たい風の中を舞いながら、墜ちていく雪兎の背中をいつまでも追いかけていた。

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