20、吝嗇の悪魔
ルミエールと別れ、宮殿手前の高台にある『作戦参謀本部』へと急ぐ雪兎と園長。各方面から聞こえてくる戦況の音は、焦燥の合唱のように激しさを増している。
走る足音の隙間を縫うように、雪兎は予てより引っかかっていた問いを投げた。
「園長!さっき話していたグラシャ=レジナってのは誰なんだ? この状況で、そんなに関係があるのかよ」
「……グラシャ=レジナは、あんたの生みの親よ」
「……っ!」
呼吸が、一瞬だけ音を失う。
「あなたがルミエールのもとで修業している間、私の方で調べを進めていてね。戦況がここまで悪化していなければ伝えるかも迷っていたさね。だが……これほど膠着・切迫してしまっては、あんたの『天律の聖石』を完全解放するよりほかに道はない。そして、それを外せるのは――かけた本人、グラシャ=レジナだけよ」
淡々とした声の裏で、雪兎の胸中には冷たい泥をかき混ぜたような動揺が渦巻いていた。
やがて戦火の焦げ臭さを切り裂いて高台のテント群へ辿り着いた二人だが、即座に重装の近衛兵が十字の槍をクロスさせて立ちはだかる。
「何者だ!ここから先は軍機につき立ち入り禁止!」
「グラシャ=レジナへ急ぎの用がある。ルミナ=ウリエラの名前を出せばわかるさね。通しておくれ」
その名が発せられた瞬間、近衛兵の面持から険が抜け、血の気が引く。
「ルミナ=ウリエラ様……!? し、しかし、申し訳ありません! グラシャ様は、たったいま宮殿の直掩へ向かわれてしまいました!」
「ここを空けるなんて……何かあったのかい?」
「第四席の嫉妬の悪魔が別働隊を引き連れ強襲。初期対応は大天使三名で圧していましたが、つい先ほど、第一席と第二席の双璧が宮殿中枢へ直行したとの報が……! 加勢せねば前線が溶けると、グラシャ様が自ら飛び出されました!」
歯を噛み締める音を立て、園長は渋面を作る。
「一大事だね……! 雪兎、すまないさね、足を急がそう」
「わかった!」
再び走り出した景色のなか、空気がひび割れるような衝撃波の余韻が重なっていく。悪魔軍の針路は、明確に王宮の中枢へ収斂していた。
目の前にそびえるのは、天を仰ぐような大階段。一息に駆け上がり、巨大な双扉を押し開けた瞬間――。
目に飛び込んできたのは、神殿というよりは屠殺場を思わせる惨状だった。外光が刺す大講堂の長大な神託机は半ば粉砕され、黒い血潮がモザイクタイルの目地を濡らしている。散在する無数の翼の残骸。その中央で、圧倒的な格を持つふたつの影と、満身創痍のひとりの天使が激突の火花を散らしていた。
「グラシャ!」
名を叫んだ瞬間、本能が警鐘を鳴らす。第一席の悪魔が空間の空気を一飲みするように両手を広げた。
――ズドン、と大気が膨らみ、透明の巨人に腹を殴打されたような反発力。雪兎も、園長も、そしてグラシャすらも、ゴムまりのように後方へ弾き飛ばされる。
「ぐはっ……!」
背中を大理石の柱に叩きつけられ、肺腑の空気が遅れて戻る。視界が揺らぐ中、すぐさま起き上がろうとした雪兎の眉間に、冷厳な殺気が影を落とした。
――第二席の悪魔が、処刑人の重心で目の前に立っていた。
「雪兎!」
届かない距離。振り下ろされる手刀の軌跡が、スローモーションの死の弧を描く。
その死角の空気を裂いて、黄金の指輪を五指すべてにはめた巨大な拳が、流星のごとき軌道を描いて割り込んだ。
ドゴォッ! と音を置き去りにし、第二席の顔面を真正面から捉えた拳が、そのまま奴を砲弾のように打ち抜く。
「おお、小僧! 遅くなったことに対する苦情の窓口は、生憎と全休中だぜ!」
一本の奇妙な触覚をピンと立てたオールバック、全身を財宝の装飾で彩ったド派手な巨影――オーリの背中があった。
「オーリさん……! 来てくれたのか!」
「おう小僧! ここはおれに任せて弟のところへ走れや!」
雪兎は泥を飲み込むように頷き、一歩も引かぬ足で奥の回廊へと弾き出されるように駆けた。
オーリは背中越しに、園長へ親指を立てる。
「おうばばあ! まだ干からびてなかったか! 自慢の特戦隊を連れてきたぜ、こっちは任せな!」
短く視線を交わし、園長は無言の首肯を返してグラシャの背へと滑り込む。
視界が切り替わった闘技の余白。オーリは遠ざかる第二席の着地地点へ向けて、ふてぶてしく顎をしゃくった。
「おうおう、どうした第二席のアヴァリスク=レッジ様ともあろうものが、床の掃除代が浮いちまうじゃねえか」
ガレージのシャッターが軋むような不気味な音を立て、アヴァリスク=レッジが瓦礫の中から起き上がる。無傷。あまりにも不自然なほど、角の一本すら欠けていない。
「オーリ様! あいつ、今の一撃……全く入ってません!」
特戦隊一号が青ざめて叫ぶ。
「オーリ様……傷ひとつ、毛穴ひとつ……!」
二号が歯をガタガタ鳴らしながら続く。
「オーリ様……! オーリ様……!」
三号は、報告すべき台詞のストックが完全に尽きていた。
「うるせえお前ら、見りゃわかんだよ!」
一喝した背後で、四号の息が止まる。
「オーリ様……お顔が……!?」
メリメリ、と、オーリの頬の骨格が誰かに見えない金槌で殴りつけられたように陥没する。
「ぐっ……おああっ!」
空中で回転しながら吹き飛ぶオーリ。
「「「えぇぇーっ!?」」」
一・二・三号が綺麗にハモる。
砂煙の中から、オーリが舌打ちしながら起き上がり、乱れた前髪を指で無理やり掻き上げて格好をつける。
「ふん、小技を……だが、この程度の衝撃、おれの美貌にはかすりもしねえぜ!」
(※膝が笑っている音は、誰にも聞こえないことになっている)
「オーリ様カッコイイです!」
「オーリ様男前!」
「オーリ様……オーリ様ぁ……!」
「野次は後回しだ! さっさとやれや特戦隊!」
掛け声一閃、三人が空中で影を紡ぐ。
「くらえ……蜃気楼・イリュージョン!」
光の残像が三つに裂け、三方からアヴァリスクの死角を抉る連撃の雨。一号の裏拳、二号の踵落とし、三号の膝蹴り――その瞬間、三号の腕が床の摩擦ですりむけ、赤い線が走る。
直後。
――コンマ数秒前の自分たちの拳の重みが、三人の内臓を丸ごと裏返した。
「ぐはっ……!」
三方向へ紙くずのように散らばる影。
「ここまでとは……無念……」
「お役に……立てず……」
「オーリ様ぁ……」
三つの影は、音もなく光の中に溶けて消えた。
「くそ、安物買いの銭失いとはよく言ったもんだ……四号! お前だけが頼みだ!」
「うおおおおおっ!」
涙を呑んで突っ込む四号の拳。だが、結果は同じ――跳ね返される質量。宙を舞う四号を、オーリは慈悲深く抱きかかえる。
「オーリ様……ありがとうございます……!」
「おう、よくやった」
――バチィッ!!
音速の平手打ちが四号の頬を抉り、完全に意識の電源を落とす。
「なぜ……」
「……仲間を盾にするでもなく、ただ八つ当たりとは。悪趣味なことですね」
冷ややかに見据えるアヴァリスクの眼差しを受け、オーリは傷だらけの唇の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「いやぁ、よく見えてら。お前……受けたダメージを相手にそっくりそのままミラーリングする『等価反射』か? いや、違うな。三号の擦り傷の位置がそのまま戻ってきてるのを見ると、ダメージの『交換・肩代わり型』。で、さっきのビンタでノーダメだったところを見ると、発動は『完全常時じゃなく、一瞬の隙間』……だろ?」
アヴァリスクの瞳孔が、ほんのわずかに小さく揺らぐ。
「……驚きましたね。軽薄な銭ゲバの面の下に、そこまでの算盤勘定が隠れていたとは」
「――ご注心。おれは金で人を買うが、客には私情を挟まねえ。だがな、レッジ……おれ自身の『利潤』だけは、ケチらねえ主義でね」
言葉の終わりに、オーリの身体が弾けた。
距離を一気に詰める。右ストレート。アヴァリスクがそれを浅くいなし、反射のカウンターを重ねてくる。重い。オーリの肩口の肉が、自分の放った圧迫感に引き裂かれるように赤く滲む。
引かぬオーリは、あえて無防備な左脇腹を空け、ゼロ距離で相手の腹筋を抉る勾配拳を叩き込む。
直後、反射の帳面が発動し、オーリ自身の肋骨がパキリと鳴って亀裂が入る。血を噴き出すオーリ。だが、その口元は逆に凶悪に歪んでいた。
「どうだレッジ! 貸し付け(リスク)はもう利子込みだぜ!」
踏み込み、殴り、削り合う。アヴァリスクの冷徹な掌底がオーリの鳩尾を撃つたび、オーリもまた自身の拳で肉体を砕き、あえて「負債の総額」を加速させていく。
一撃ごとにアヴァリスクの反射回路が過熱し、わずかに処理落ちするような遅延の隙間が生まれる。それをルーズリーフの余白を埋めるがごとくオーリが体当たりと連打でこじ開け、双方が血飛沫を舞い散らせる。
バチィ、と空気の爆裂音。両者の足元の大理石が完全に粉末と化し、オーリの片膝が重く床を撃った。
トドメとばかりに、アヴァリスクの冷徹な掌底が、オーリの心臓を抉らんと直進する。
その刹那。
オーリの拳が、敵ではなく、自らの心臓の真裏を抉る勢いで――自らの胸元を全霊で叩き潰した。
ドクン、と世界の色が反転する。
アヴァリスクの動きが、糸の切れた操り人形のようにピタリと凍りついた。
口の端から、どす黒い血液の塊が、零れ落ちるどころか噴き出す。
「なっ……なにを……? ただの自損の衝撃が、なぜ私の心臓を――直撃、する……?」
膝をつきかけ、アヴァリスクは自分の胸元が内側から粉々に砕け散っていく光景を、信じられないものを見る目で仰ぎ見た。
オーリは、口から血を垂らしながらも、ボロボロになった背中を壁に預け、すましたようにふぅと息を吐く。
「教えてやろうか、レッジ。おれの能力の真骨頂は『他者への貸し付け』じゃねえ。……この戦闘中、おれが受けて、おれが抱え込んで、おれが金利として上乗せし続けたすべての『痛みとリスク』の全元利合計を――最後のワンパンにまとめて、一括返済してやったのさ」
「ぐっ……があ……っ!」
鉄壁の守銭奴だったはずのアヴァリスクの身体が、まるでひび割れた陶器のように光を零しながら崩れ落ちていく。
「言っただろ。……おれは、強欲なんだよ」
遠のく意識の中、オーリは懐からボロボロに欠けた黄金の櫛を取り出すと、血に濡れたオールバックの髪を、雑に、しかし誇らしげに一撫でした。




