2.平穏な日常と
午後十五時。すべての授業の終わりを告げるチャイムが響き、校舎は慌ただしさを脱ぎ捨てるように静寂へと沈んでいく。
部活動という青春の枠組みを持たない太奈都は、空っぽの廊下を後にして一人、孤独な帰路につく。その途中、ほんの少しだけ足を引きずるように遠回りをして、弓道場の脇をかすめる小道を通るのが密かな日課だった。
すぱーん、と硬質な空気を切り裂いて、乾いた矢の突き刺さる音が響き渡る。道すがら吸い寄せられるように視線を向ければ、そこには的の中心を射抜く優妃の姿があった。凜とした佇まいで弓を引き絞る彼女は、まるで絵画のように息をのむほど美しかった。
見とれてしまっている情けない自分に気づき、慌てて視線を逸らしながら正門へと歩みを進める。
さらにグラウンドの横を通りかかると、夕日を浴びながらサッカーボールを追う雪兎の姿が見えた。チームメイトの中心で汗を輝かせ、屈託のない太陽のような笑顔を浮かべる兄。
高校に入学して半年が経つというのに、深い霧に閉ざされたように他人に馴染めない太奈都には、気安く笑い合える友など一人もおらず、部活の熱気すらどこか遠い世界の出来事のようだった。彼の高校生活は、音のない水底のようにどこまでも孤独だった。
――なんてことのない、日常。
波風の立たない平穏といえば聞こえはいいが、それは色褪せた絵の具のように退屈で、ただ淡々と、無慈悲に過ぎ去っていく日々だった。
その日の夜も、いつもと変わらない薄っぺらいページをめくるように過ぎるはずだった。決まりきった時間に夕食をすませ、自分の部屋という名の巣穴に戻り、意識を手放す。
だが、その夜。
太奈都は、現実の皮膚感覚を伴った奇妙な悪夢に引きずり込まれた。
辺りは底知れぬ漆黒の闇に包まれ、上下左右の座標すら溶け合うような不気味な空間。そんな虚空のどこからともなく、足音すら立てずに――名状しがたき(何者か)が、粘つく蛇のように近づいてくる。
来る、と本能が警告を発した瞬間。
(それ)は、太奈都の耳たぶに自分の冷たい息がかかるほどに密着し、凍てつく刃のような声で囁いた。
――「熟す期は近い。お前の役目を果たすため栄養を蓄えよ」
呪詛のような言葉を遺すと、その気配は朝霧のように嘘のように霧散した。
そこでおののくように、冷や汗にまみれて目を覚ます。視界に飛び込んできたのは、いつもの、しかしどこか見慣れない檻のように映る自室の天井だった。
だが、決定的に違うところがある。二段ベッドの下の隙間から、兄がまるで太陽の光でも差し込むかのように、心配そうに顔を覗かせたのだ。
「大丈夫か、太奈都? お前がそんな風にうなされるなんて珍しいな」
目覚めたことに気づいた雪兎が、春風のように温かい声をかけてくる。普段なら、悪夢に怯える兄を弟の自分が慰める朝のはずだった。
ねじ曲げられたように立場が逆転した不気味な目覚めに、太奈都の胸中には、名状しがたいうねるような、泥をかき混ぜたような不快感が渦巻いていた。
「うん、心配いらないよ。ちょっと顔を洗ってくるから」
表情がひきつるのを必死に仮面の下に隠しながら、洗面台へと足場を移す。
その虚ろな視界の端に、今朝も懲りずにずぶ濡れになりながら奇声を上げている父の姿が映った。
(……まだ続けてるんだ)
呆れによって少しは心の澱が紛れるかと思ったが、洗面所に入り、冷たい水を両手ですくい上げて顔に叩きつけようと目を閉じた瞬間――昨晩の夢の残滓が、まぶたの裏で毒の花のようにブワッと咲き誇った。
輪郭ははっきりしないのに、胸の奥を万力で締め付けられるような激しい胸騒ぎが止まらない。脳裏にこびりつくドブ川のような嫌悪感と、頭蓋骨を内側からハンマーで叩くような偏頭痛。
思わず冷たい蛇口にしがみつき、歯をくいしばって濁流のような痛みに耐える。
しばらくしてどうにか荒れた呼吸が鎮まったが、額にはねっとりとした嫌な汗が滲み、荒い息が漏れていた。鏡に映った自分の瞳は狂気に満ちたように酷く血走り、追いつめられた怯えた獣のように自らを睨みつけている。
浮かび上がる、うろ覚えの夢の続き。自分を取り囲む、異様な熱を帯びた群衆の群れ。そして――自分の耳元で冷たく、底意地悪く響いたあの声。
言葉の正確な意味すら分からないというのに、その奥底には、もう一つだけ、脳髄を焼き焦がすような強烈な感情がこびりついて離れなかった。
(――殺して、すべてを奪え)
夢の中で、顔の見えない何者かにそう命じられた瞬間、自分という泥水の底から沸き起こったもの。
それは一体、誰に向けられた殺意なのか――あまりにも生々しく、底知れないその「殺意」は、まるで寄生虫のように太奈都の理性を蝕んでいた。
朝の目覚めから、こんなドス黒い、底の抜けた悪意に囚われるなんて。
こんな時、奇妙なタイミングで決まってあの人がやってくる。
「太奈都! 大丈夫か?」
ほら、悪夢の続きを断ち切るように、足音が近づいてくる。
「ごめん、遅かったかな」
充血にじんだ瞳を必死に誤魔化し、いつもの貼り付けたような笑顔を作る。
「太奈都……お前、目が真っ赤だぞ。おでこにもすごい汗だ。本当に体調悪いんじゃないのか……?」
どこまでも心配性で、どこまでも家族思いで。――兄とは、そういう人間だ。
本当に、その優しさに救われるはずなのに――。
「本当に大丈夫だってば。……って、母さんかよ!」
「なんだよ、せっかく心配してやったのに」
軽口をおどけてみせるが、心の内側では得体の知れない殺意が猛毒のように暴れ回り、とても正気を保っていられなかった。
「そうか。もうすぐご飯もできるから、早く準備して茶の間にこいよ」
そう言い残して茶の間へと戻っていく雪兎の温もりある背中を見送りながら、太奈都は喉元まで出かかった黒い吐息を、必死に飲み下した。




