0、プロローグ 1、夢見
0、プロローグ
凍てついた季節を幾度繰り返しただろうか。一つ、また一つと、枝から零れ落ちていく無数の結実。ただ徒労に泥を舐めるがごとく、冷たい泥の上で待ち続ける。
いつか、そういつの日か……その樹液が毒から甘露へ変わり、真の「意」を孕むその時まで。爛れた爪を地中に深く突き立て、この世界の寿命がすり潰されて灰燼に帰すまで、私はただ『待者』として君臨し続けよう。
1、夢見
(――視界の果てまで、血の海に沈んだような緋色の世界が広がっている。人、建物、その輪郭のすべてが狂おしいほどの赤に塗りつぶされ、おぞましい熱を帯びていた。
自分は底知れぬ巨塔の頂にでもいるのだろうか。ふと見下ろした足元には、悍ましい傀儡のように群がり、どこか狂信的な熱を孕んだ瞳でこちらを見上げる群衆の姿がある。
恐怖に引きつる者、救いを求めるように恍惚の表情を浮かべる者――表情こそバラバラだが、その視線のすべてが蜘蛛の糸のように自分へと絡みついていた。
――私は今、ここで何をしている?
答えを探そうと右を向いた瞬間、戦慄の光景が冷たい刃のように脳髄を突き刺した。
自分の右手には、おぞましく血塗られた狂気の太刀。そして、その刃には――一人の男が深く、まるで肉を抉るように突き刺さり、どす黒い生命の雫を途絶え間なく零していた。男は既に音もなく、うなだれたままピクリとも動かない。……この手で、私は一体、何を――。
引き裂かれた胸の奥を覗き込もうと、震える手を伸ばした、その時。
死んだはずの男が、不気味に、ガクリと顔を持ち上げた――)
――長い悪夢の底から、引きずり出されるようにハッと目を覚ます。
額からは冷たい脂汗が滝のように流れ落ち、暴れる心臓はまるで壊れた鐘のように、肋骨を内側から狂おしく打ち鳴らしていた。一晩中底なし沼をさまようような悪夢にうなされ、全身はまるで鉛を流し込まれたように重く、酷い疲労感がまとわりついている。
「またか……一体、なんなんだよ……」
起き抜けの乾いた喉から、掠れた声が零れ落ちる。
ここ数日、夜の帳が降りるたびに繰り返される悪夢。あれは魂の深部から発せられる不吉な警告か、それとも底知れぬ災厄の前触れか。言いようのない不安感は、心の奥底にできた膿んだしこりのように、日増しに肥大していくのを感じていた。
荒れ狂う呼吸を鎮めようと深呼吸を繰り返した時、二段ベッドの上階から、弟が心配そうに身を乗り出して顔を覗かせた。
「また怖い夢? すごく魘されてたけど、大丈夫……?」
「あぁ……ごめん、起こしちゃったか」
「ううん、もう起きなきゃいけない時間だったし」
春の陽射しのように柔らかく微笑む弟の気遣いに、雪兎は凍りついていた胸の奥が少しだけ温まるのを感じた。だが、連日続く悪夢の生々しい感触は、消えるどころか重くのしかかったまま離れない。
「雪にぃ、早く準備しないと遅れるよ」
淀んだ空気ごと引き剥がすように声を掛けてくる太奈都の言葉に、雪兎はハッと現実へと引き戻される。
「そうだったな」
慌てて支度を始める太奈都に釣られるように、雪兎も重い体をベッドから這い出させた。次々と押し寄せる朝のルーティンは、悩みに浸る暇すら与えてくれず、昨夜の悪夢の残り香を容赦なく日常のなかに飲み込んでいく。
身支度を終えた二人が二階の自室を出て、一階の茶の間に降りると、母が戦場のように忙しそうに朝食の準備を切り盛りしていた。
「おはよう。もうちょっとでできるから、お父さん呼んできて」
「はーい」
台所と茶の間を目まぐるしく行き来する母の背中に、太奈都が軽快な返事をして寝室へ向かう。朝という魔物に魅入られたように寝坊助な父を起こすのは、いつだって太奈都の役目だった。
その背中を見送りながら、雪兎は食卓の席に腰を下ろす。しかし、ほんの数分もしないうちに、太奈都はきょとんと首を傾げながら一人で戻ってきた。
「母さん、父さん寝室にいないけど?」
「あら、ごめんごめん。お父さん、今庭にいるのよ」
「おかしいな」と小首をかしげる太奈都に、母はクスクスと喉を鳴らして笑いながら答える。朝の訪れを死刑宣告のように嫌う父が、自ら進んで早起きをし、庭に出るなど天変地異が起きるようなものだ。
「えっ? なんで庭に?」
「それがね、昨日寝る前にテレビで『朝の水浴びは若返りの秘薬よ!』って大げさにやってるのを見たんだって。それを真に受けちゃって、『俺も明日から不老不死になる!』って息巻いて飛び出しちゃってさ」
呆れ混じりに語る母の言葉に、雪兎と太奈都は絶句した。
それもそのはず、父は母がトラクターでも引くような勢いで叩き起こさなければ昼まで、下手をすれば夕方までまどろみ続けるような筋金入りの怠け者だ。おまけに季節は、肌を突き刺すような冷たい木枯らしが吹き荒れる、秋の終わりである。
「いやいや、それ逆に寿命を縮める特効薬でしょ……」
雪兎がひきつった顔で呟くと、母も深く、深く頷いた。
「バラエティ番組の健康法を鵜呑みにしちゃったんだから、しょうがないわよねぇ」
「“アホかっ……!”」
あきれ返る雪兎と、思わず盛大に吹き出す太奈都。
と、その時。まさに限界突破を迎えた様子の父が、ガタガタと地震のように全身を震わせながら茶の間に這うように戻ってきた。
「かかか母さん、あちゅいお茶ちゃっちゃくへ……っ!」
完全に滑舌が氷結している。唇は極寒のせいで毒々しいほど紫色に変色し、上半身裸の痩せ衰えた肌にはびっしりと鳥肌が波立ち、下半身の股引は滝つぼに落ちたかのようにぐっしょりと濡れそぼっていた。
事態のヤバさを本能で察知した母が、慌てて沸騰したてのお茶を淹れに走り、太奈都が寝室から父の乾いた着替えを抱えて疾風のごとく駆け戻る。その大パニックを冷ややかな目で眺めながら、雪兎は深いため息とともに、冷え切った父の肩に分厚いバスタオルを投げかけた。
すっかり青息吐息で干からびた蛙のようになった父をどうにか人間に戻した後、時計の針を見た太奈都は――青天の霹靂とばかりに顔を青ざめさせた。
「父さんのせいだよ――!!」
優雅に朝のティータイムを済ませているべき時間を冷酷に指し示す時計を見て、太奈都は決壊したダムのように涙目になりながら、目の前の朝食を文字通り喉へとかき込み始めた。
「おい、早くしないと置いていくぞー」
この大混乱を特等席の観客のように涼しい顔で見守っていた雪兎は、すでに食べ終えた食器を軽やかに片付けながら、弟を面白そうに急かす。
ものの五分で朝食を「流し込み」、文字通り風を切り裂く勢いで身支度を整えた太奈都は、整える暇もない荒い息をつきながら玄関へと飛び出した。
「雪にぃ、お待たせ! 行こう!」
二人が嵐のように慌ただしく家を飛び出すと、待ち構えていた運命の審判員かのように、聞き慣れた少女の怒声が飛んできた。
「遅ーーいっ!」
仁王立ちで両眉間を険しく寄せているのは、幼馴染の優妃だった。
「いつも言ってるだろ。別にそんなに気合を入れて待っててくれなんて、一言も頼んでないって」
「なっ……!?」
氷のように冷静に言い返す雪兎に、優妃の顔に怒りの炎がメラメラと燃え上がる。その一触即発の空気を敏感に察知した太奈都が、すかさず彼女の前に小動物のように割って入った。
「ごめん、遅くなったのは僕の準備が遅かったからなんだ。ここで言い争ってたら、今度こそ本当に遅刻しちゃうよ?」
潤んだ瞳で上目遣いに見つめられると、優妃は「うっ……」と強力な魔法をかけられたように言葉を詰まらせ、それ以上毒を吐けなくなってしまう。雪兎と優妃の間に走る険悪な電流を完璧にショートさせた太奈都を先頭に、三人は朝の通学路を慌てて駆け抜けた。
「おじさんは相変わらず電波を受信してるし、太奈都も苦労が絶えないわねぇ。ま、どっかの誰かさんは、横で悠々と観客気取ってるだけだったんだろうけど」
登校中の冷たい風の中、優妃はまだ収まらないとばかりに、斜め後ろを歩く雪兎を鋭く睨みつける。
「ふん、年々小言のバリエーションがお局様じみてきている女に言われたくないね」
「なんだとっ……今すぐその口を縫い合わせてやろうか!」
水と油、あるいは磁石の同極のように、顔を合わせれば一瞬で火花を散らすのが彼らの日常の風景だった。太奈都はもうその嵐に巻き込まれないよう、少しだけ距離を取って歩くのが習慣になっていた。
喧嘩ともじゃれ合いともつかないいつもの小競り合いを聞き流しながら学校の敷地にたどり着くと、二つ年下の太奈都は一年生の教室が並ぶ階へと足取りを分ける。
「じゃあね、二人とも」
「うん、また放課後」
「授業中にこっそり白昼夢でも見てるなよ」
雪兎の軽口に「お前が言うな!」と優妃が反射的に言い返し、また廊下の隅で小さな口論の火花が散る。
その頼もしくも眩しい背中を、太奈都は少しだけ遠い目をしながら、痛む胸の奥で羨望の眼差しで見つめていた。
周囲の人間から見れば、あの二人は「喧嘩するほど仲が良い」という絵に描いたような青春のワンシーンであり、どうひいき目に見てもお似合いのカップルにしか見えない。
(僕も……あと二年早く、せめて同じ時に生まれていればなぁ……)
そんな叶わぬ切なさを飲み込み、遠ざかっていく二人の後ろ姿から、そっと視線を逸らした。




