18、暴虐の悪魔
眩い転移の空間を抜け、固い地面に足をついた雪兎たち一行。だが、目の前に広がる『天使の世界』の光景は、先ほどの悪魔の世界をも遥かに凌駕する地獄絵図だった。
「終焉の境界門」が設置されているはずの城塞は外壁が無残に崩落し、内部が丸見えになっている。外へ目を向ければ、激しい衝撃で飴細工のように破壊された建物が無数に転がり、瓦礫の山には夥しい数の戦闘員たちが血を流して倒れていた。もはや戦争という次元を超えた、一国の崩壊そのものだった。遥か奥の各所でも、絶望的な死闘が繰り広げられている。
あまりの惨劇に雪兎は一瞬足がすくみかけたが、遠くの高台にそびえる巨大な宮殿を見据えた瞬間、その瞳に憎悪の色が宿った。そこには、赤黒い肌と不気味な角、そして禍々しい翼を生やし、完全なる「異形の悪魔」へと変わり果てた太奈都の姿があった。その隣には、あの日、彼を連れ去った大柄な女悪魔が不敵に立っている。
「あいつが……嫉妬の悪魔……! 太奈都を連れ去った張本人か!」
激情に駆られた雪兎が、理性を飛ばして駆け出そうとする。
「雪兎、待ちなさい! 一人で突っ込んでいっても犬死にするだけだよ。太奈都を連れ戻したいなら、頭を冷やしな!」
間一髪、園長がその袖口を強く掴んで引き留める。鼻息を荒くし、今にも飛び出しかける雪兎を、園長は必死になだめすかした。
「想像以上に悪魔軍の侵攻が激しい。無駄な体力を消耗しないよう、ここからは人目を避けて路地裏伝いに進むよ」
今すぐにでも太奈都のもとへ駆け出したい衝動を、雪兎は歯噛みしながら必死に飲み込み、園長の背後へと従った。城を離れ、城外へと出る。そこはかつて、海外の美しい街並みを思わせる洗練された石造りの街並みだったはずだ。しかし、いまやその美しい外観も見る影はなく、ところどころが崩れ落ち、流血で赤黒く染め上げられていた。
敵の目を盗むように静まり返った路地裏を抜けていく一行。だが、開けた大通りへと差し掛かったその瞬間、頭上を覆っていた太陽の光が、突如として巨大な影にかき消された。
ズシンッ!! ギギギ……パァンッ!!
尋常ではない地鳴りとともに、アスファルトを粉々に砕く凄まじい衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。着地したその巨躯の悪魔は、ゆっくりと顔を上げると、ねっとりとした濁った声で一行に話しかけた。
「これはこれは……元・慈愛の大天使ルミナ=ウリエラじゃないか。相変わらず見目麗しいことで。それで……おれにもぎ取られた翼の痛みと調子は、どうだい……?」
醜悪ににたにたと笑いながら、園長を見下す暴虐の悪魔。その瞬間、温厚な園長の眉間にかつてないほど深いしわが刻まれ、殺気すら帯びた怒りの表情が浮かんだ。
「モロク・ゼブブ……相変わらず、虫唾が走る顔だね……。しょうがない、お前たち、ここは私に任せて先へ――」
園長が前へ出ようとしたその時、彼女の前にすっと一歩、圧倒的な体躯の背中が立ち塞がった。
「ここは俺がやる……。園長たちは、太奈都のところへ向かってくれ」
驚いた表情で、園長は振り返る。
「ガル、こいつは五席に入ってる……あんたには荷が重すぎる……!」
制止しようとする園長の言葉を、ガルは右手の籠手をきつく握りしめて遮った。その瞳には、砕け散ることすら厭わない揺るぎない覚悟と凄まじい闘志が満ち満ちていた。園長は一瞬息を呑んだが、ガルの背中から発せられる決意の重さを理解し、静かに頷いた。
「……わかった。必ず追いついてきなさいよ」
園長はガルの頑強な肩をポンと叩くと、振り返り、雪兎とルミエールに向かって「行くよ!」と声を張り上げ、歯噛みする雪兎を引きずるように駆け出した。
その背中に向け、ガルは低い、しかし確かな声を飛ばした。
「雪兎! ……必ず、太奈都を連れ戻すんだぞ!」
初めて投げかけられたガルの真っ直ぐな言葉に、雪兎は一瞬ハッと息を呑んで硬直したが、すぐに強く頷き返す。
「ガルさん、ありがとうございます! 先で、待ってます!」
ふたたび駆け出す雪兎たちの背中を見送り、ガルは音もなく向き直った。
目の前に立つモロク・ゼブブを鋭く睨みつけ、拳に重力震の力を極限までみなぎらせる。だが、モロク・ゼブブは格下の相手を見るような余裕の笑みを崩さない。
「なんだ、おれとルミナの邪魔をする虫けらが。……まあいい、退屈しのぎの肉片遊びにはなるか!」
吠えるやいなや、モロク・ゼブブの足元が爆ぜた。音速の踏み込みによる衝撃波が周囲の空気を引き裂き、奴は瞬時にガルの懐へと跳ぶ。容赦のない剛腕が、鉛の砲弾の如く振り下ろされた。
ドゴォッ!!
ガルも一歩も引かず、全身の筋肉を軋ませてカウンターの重力拳を叩きつける。衝突の瞬間、あまりの衝撃に空間そのものが歪み、発生した暴風が周囲の石造りの壁を粉々に剥ぎ取った。
「ふははははっ! いいぞ、なかなか骨がありそうだ! まずは50パーセントだ、いくぞ!」
狂ったような笑い声をあげ、モロク・ゼブブは追撃の連打へと移行する。
ダダダダダダダダダダッ!!
視界が塗りつぶされるほどの猛烈な拳の嵐。一発一発が岩をも砕く必殺の剛腕が、ガルの肉体を容赦なく襲う。ガルも負けじと重力震を纏った両拳で応戦するが、圧倒的な暴力の質量差が、ガルの防御を徐々に削り取っていく。
ついに猛打の嵐を耐えきれなくなったガルが、ガクリと片膝をついた。その隙を逃さず、モロク・ゼブブの拳はさらにスピードを増していく。激しい滅多打ちの末、ガルは意識の糸をプツリと切れかけ、瀕死の重傷を負う。
「ふん、終わりか……」
そう呟いたモロク・ゼブブの隙を突き、ガルは血を吐きながらも「うおぉおっ……!」と咆哮を上げ、全身の筋肉を異様に膨張させた。限界を超えたパワーで、渾身の重力拳をモロク・ゼブブの顔面へと叩きつける。
ガシャアアァンッ!!
モロク・ゼブブの巨体は後方の建物を次々と貫通し、遥か彼方へと吹き飛んでいった。その着弾点は、ちょうど天使軍と悪魔軍が激突している最前線の戦場だった。
「モロク・ゼブブだ! かかれーっ!」と突撃する天使軍と、「モロク・ゼブブ様をお守りするぞ!」と色めき立つ悪魔軍。入り乱れる群勢の只中へ放り出された形となったが、
「うるせぇ……! お楽しみの最中だ、邪魔をするなァッ!!」
モロク・ゼブブは邪魔立てする両軍の兵士たちを、敵味方の区別なく虫けらのようになぎ払い、凄まじい暴風で吹き飛ばした。
その混乱の隙を逃さず、ガルは瞬時に間合いを詰め、再びその顔面へと拳を叩き込む。モロク・ゼブブは地面に深くめり込むが、即座に跳ね起き、さらに激しい肉弾戦へと突入した。二人の拳が生み出す衝撃波だけで、周囲の一帯は誰も近寄れないほどの死地と化していく。
「ふはははは! いいぞ、もっとこい! 今度は70パーセントだ!」
モロク・ゼブブの肉体がさらに一回り肥大化し、その速度と一撃の重さが跳ね上がる。圧倒的な物量の前に再び劣勢へと追い込まれたガルは、重い一撃を受けて再び数棟の建物を吹き飛ばされ、戦場を大きく移動させられた。
遠ざかる意識の中、モロク・ゼブブの巨影がぼやけていく。
(……こいつに、負けるわけにはいかないんだ……!)
消えかける闘志の底で、脳裏にあの日の記憶が鮮烈に蘇った。
――回想。
まだあどけなさが残る幼少期、ガルはモロク・ゼブブ領の貧民街で両親と暮らしていた。
富裕層の贅沢の裏で、日々のパンを買うことすらままならない極貧の日々。そんなある日、領主であるモロク・ゼブブの命により、中級悪魔たちによる無慈悲な税金の取り立てが始まった。払えない者の家は見せしめに破壊され、子供のいる家庭では容赦なく人質として連れ去られていく。
ガルの家にもその魔の手が迫った。蓄えなど一文もなかった。ガルが連れ去られそうになった瞬間、両親が泣き叫びながら中級悪魔にしがみつき、必死に抵抗した。
――次の瞬間、冷酷な刃が閃き、両親はその場に血を流して崩れ落ちた。
「ガキ、お前もいくぞ」
絶望に染まるガルの腕を、冷徹な悪魔が掴み取ったその時だった。
ドゴォッ!!
突然、ガルを捕らえていた中級悪魔の体が何かに撃ち抜かれたように弾け飛び、宙を舞った。ガルはふわりと優しい光に包まれ、少し離れた安全な瓦礫の上にそっと降ろされる。
「――遅くなって、ご両親を助けられずすまない」
耳元で囁いたその人物は、眩い気品を纏った一人の大天使だった。当時のルミナ=ウリエラ――のちの園長その人だった。交易のためにこの地を訪れていた彼女は、通りすがりに見過ごすことができず、介入してしまったのだ。
「ほう……?」
戦場の奥から、拍手の音が響いた。現れたのは、若い日のモロク・ゼブブだった。彼は不敵な笑みを浮かべ、ルミナへと歩み寄る。
「さすがは慈愛の大天使様。こんな貧民のガキにまで慈愛をくださるとはね。……だが、私の部下が勝手に痛めつけられてしまった。これは、天使と悪魔の大戦における新たな火種になりますかなぁ?」
あからさまな揺さぶりと脅しをかけるモロク・ゼブブ。ルミナは眉をひそめつつも、静かに答えた。
「……ただの小競り合いだ。大げさに騒ぐことではない」
「そうはいかんよ。私の部下が傷ついた。何か誠意を見せてもらわなければな」
泥沼化を避けるため、ルミナは苦渋の決断を下した。
「わかった……。だが、この子供の安全は、絶対に保障してもらう」
その言葉を聞いた瞬間、モロク・ゼブブの口元に醜悪な笑みが広がった。
「ああ、いいとも。だが――動くなよ!」
瞬間移動の如き機動力でルミナの背後へと回り込んだモロク・ゼブブは、無防備な彼女の背中に全体重をかけ、両足で踏みつけながら、その背に生える四枚の神聖な翼を力任せに――すべての根元からむしり取った。
「ぐっ……!!」
圧倒的な激痛と神力の喪失に、ルミナはその場に崩れ落ちた。モロク・ゼブブは満足げに高笑いを上げ、部下たちを引き連れて去っていく。
泣きながら駆け寄る幼いガルに、ルミナは血を流しながらも優しい笑みを向けた。
「……泣かないで。君が無事で、よかった」
彼女はガルの頭をそっと撫でると、傷ついた体を引きずりながらその場を去っていったのだった。
――のちに知ることになる。あの日の非道な取り立ても、理不尽な要求も、すべてはモロク・ゼブブが「慈愛の大天使を罠に嵌め、その翼(力)を奪うため」に仕組んだ巧妙な政治的謀略だったのだと。
すべてを失ったルミナは天使の国へ戻ることをよしとせず、やがて人間の世界へ身を移し、行くあてのない子供たちのために『エデン・レプリカ』を創設することになる――。
――回想終わり。
「つまらん。もう終わりかよ」
モロク・ゼブブは吐き捨てるように鼻を鳴らし、口元の血を拭うと冷酷に背中を向けた。
だが――その背に向かって、ガルは喉の奥から血を逆流させながらも、ガクガクと震える足を気力だけで大地に突き立て、ふたたび立ち上がった。顔面は原型をとどめないほど腫れ上がり、全身から血を流しながらも、その目は爛々と狂気を帯びて輝いていた。
「お前は……お前は卑劣な罠で、園長の誇りと尊厳を踏みにじった……! そんな貴様だけは……絶対に、生かしてはおかん……!」
その怒号を合図に、ガルの周囲の空気が激しく発火した。彼の肉体から、すべてを焼き尽くすような禍々しい赤黒い稲妻がバリバリと音を立てて暴発する。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
ガルの頭部に生えた角がより鋭く、凶悪な形状へと漆黒に伸長し、首元までだった髪は逆立ちながら赤黒い光沢を帯びて腰まで伸びる。さらに、尾てい辺から巨大な悪魔の尾が地面を抉りながら突き出し、顔つきは理性を完全に超越した「古き魔獣」そのものへと変異した。
これこそが、彼に流れる『ベヒモス』の血脈の完全覚醒だった。
ガルは両角の間に赤黒い電撃を収束させ、空間を切り裂くほどの超高密度・破壊のエネルギー弾をモロク・ゼブブへと叩きつけた。
「ほう……っ!?」
直撃を察知し、辛うじて身を捻ったモロク・ゼブブの肩口を光の奔流がかすめ飛ばす。奴の背後にあった数棟のビル群が、音もなく一瞬で光の粒子へと蒸発した。
「お前、その血筋は……! 面白い、これなら骨の髄まで楽しめそうだ!」
狂喜の笑みを浮かべた悪魔が空間を蹴破り、瞬間移動の如き超加速でガルの目の前へ現れる。だが、覚醒したガルの神速の反応速度は、奴の予測を完全に凌駕していた。
バキィッ!!
音速の衝撃波を纏ったガルの裏拳が、モロク・ゼブブの顔面を捉える。
ズシャアァンッ!! ――――ガシャアァン!!
文字通り吹き飛ばされたモロク・ゼブブの巨体は、数層分の石造りのビルを次々と貫通し、遥か彼方へと消え去った。追撃の重力弾が直撃し、辺り一帯が巨大な爆炎のキノコ雲に包まれる。
だが、爆煙が晴れた時、そこに立っていたモロク・ゼブブの姿は、もはや元の原型をとどめていなかった。怒りと殺意によってさらに異常なまでに肥大化した肉体に、破裂寸前の血管がミミズ腫れのように這い回っている。
「ふう……ここまで本気を引き出させられたのは、何百年ぶりかだな」
悪魔が呟いた瞬間、その巨体が消えた。ガルの背後に回り込んだ悪魔は、その巨大な尻尾でガルの首元を捉え、そのまま地面へと叩きつける。
ガシャアァンッ!!
衝撃でクレーターの中心がさらに深く陥没し、ガルが血を盛大に吐き散らす。容赦のない追撃の連打の前に、ガルは意識を暗黒の淵へと引きずり込まれそうになるが、それでも本能の爪で地面を掴み、負けじと拳を繰り出していく。
(――ここで折れるわけにはいかない!! あの日、俺を救ってくれた恩人の誇りを、ここで汚させはしない……!!)
ドクンッ……!! と、静止しかけた心臓が、全身の血を沸騰させるように狂ったような爆音を鳴らして脈打った。肉体の限界をとうに超越した闘気が、ガルの全細胞を焼き尽くしながら一つの拳へと収束していく。
泥だらけの足を大地に突き立て、右腕に嵌められた『重力震の籠手』に、自身のすべての赤黒い稲妻と命の炎を極限まで塗り込める。
「うおおおおおおおっ……!! 神をも穿て、我が怒濤の拳よ……ッ!!」
魂を削り取るような絶叫とともに放たれた、文字通りの命懸けの渾身の一撃。それが、モロク・ゼブブの胸の中心へと突き刺さった。
ドンッ…………!! と、世界からすべての音が消え失せたような、重く低い地鳴りが響く。
次の瞬間――モロク・ゼブブの胸部から背中にかけて巨大な大穴がぽっかりと開き、高圧の衝撃波が背後の空間を完全に抉り取った。悪魔の血走った瞳から光が完全に失われ、その巨大な肉体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていく。
――勝負は、決した。
だが、その代償はあまりにも残酷だった。すべてのエネルギーを一点に放出させ尽くした『重力震の籠手』は、限界を超えた熱量に耐え切れず、バリバリと耳障りな音を立てて粉々に砕け散り、ガルの腕から虚しく滑り落ちた。
「はぁっ……はぁっ……くそっ……早く、みんなを……追いかけないと……」
這うようにして、泥まみれの指で地面を掴み、立ち上がろうとするガル。しかし、モロク・ゼブブとの死闘で受けた無数の致命傷と、限界を超えた覚醒の反動が、彼の肉体を容赦なく内部から破壊し尽くしていく。
もはや一歩も動かない両足。急速に目の前の景色がモノクロの闇へと染まっていく。
「みんな……あとは……頼んだぞ……」
最後にかすれた声を振り絞り、ガルは血の海の中へと力なく倒れ込み、その巨躯は深い眠り――あるいは、永遠の静寂の中へと沈んでいった。




