16、出立
季節の針は静かに進み、山々を包んでいた新緑は、うっとうしい梅雨の湿り気を帯びた空気に塗り替えられていた。オーリからの連絡を受けてから、気づけばもう一か月が経とうとしている。そんな今日も今日とて、雪兎はガルとルミエールを相手に、泥臭くも苛烈な模擬戦闘を続けていた。
そうして毎日の日課となっていた特訓を終え、山荘へと戻った雪兎たち。縁側で待っていた園長と合流し、温かい湯気が立つ食卓を囲んだその時、園長がおもむろに口を開いた。
「オーリから連絡があってね。いよいよ、出立する日が決まったそうだよ」
そう言って懐から携帯電話を取り出すと、スピーカーフォンに切り替えてテーブルの上に置いた。
「おお、久しぶりだな。早速だが、向こうの情報屋からの話でな。三日後に悪魔軍の侵攻が始まるらしい。おそらく、それに呼応する形で天使軍の迎撃も同時に行われる。だから、悪魔の世界も大混乱に陥るはずだ。その隙に乗じて侵入する」
受話器から響くオーリの声は、いつも以上に低く引き締まっていた。
「ただ、正規の境界門から入るのは目立ちすぎる。だから、悪魔の世界へ通じる秘密の抜け道を用意しておいた。座標のポイントはこの後メールで送る」
三日後――いざその時が目前に迫ると、胸の奥で冷たいものが波打ち、雪兎の武者震いはなかなか止まらなかった。だが、ようやく待ち焦がれた「太奈都を連れ戻す日」が来たのだ。熱を帯びた瞳のまま、雪兎は反射的にスマホへと声をぶつけた。
「オーリさん、本当にありがとう!」
その感謝の言葉に、受話器的の向こうのオーリはわずかに言葉を詰まらせ、それから重いため息とともに告げた。
「……ああ。だがな、一つ悪い情報もある。太奈都のことだが……聞いた話では、嫉妬の悪魔は連れ去った後も、執拗に呪いをあいつの精神へ刷り込み続けていたらしい。今や自我の大半を失い、まるで冷酷な戦闘兵器のように仕立て上げられているそうだ……。おそらく、連れ戻すためには、かつての弟と刃を交えなければならない可能性が高いぞ」
その残酷な現実を突きつけられ、雪兎はぐっと拳を握りしめ、痛ましげに眉をひそめた。だが、迷いは一瞬で吹き飛んだ。すぐに顔を上げ、力強い声で言い放つ。
「たとえそうだとしても、殴ってでも正気に戻してみせるさ。あいつは、俺の大切なただ一人の弟だからな。何が何でも、絶対に連れ戻して見せる!」
その言葉には、揺るぎない覚悟と熱量が満ちていた。固い決意を宿した雪兎の背中を、同席していた園長、ルミエール、そしてガルもまた、頼もしい眼差しで見つめていた。
「オーリ、情報集めありがとうね。あとは三日後に備えて、各自できる準備をしておきなさい。……じゃあオーリ、当日は遅れるんじゃないよ」
「……ああっ……」
短く通話を終えた音とともに、回線が切れた。四人は目前に迫った決戦の日に向け、再び心の中で意思の楔を打ち込む。張り詰めた空気の中、雪兎がぽつりと切り出した。
「あのさ、俺、明日だけどうしても行きたいところがあるんだ。一日だけ、時間をもらえないかな」
その願いに、園長は特に詮索するような野暮な真似はせず、すべてを察したように優しい笑みを浮かべて頷いた。
「わかった。行ってきなさい」
迎えた翌朝。出発の支度を済ませて山荘の玄関を出ようとした雪兎に、ルミエールがふと声をかけ、一見してそれと分かる黒いサングラスを差し出した。
「これをつけていきなさい」
ハッと思い出す。自分の瞳は、あの修羅の底で「緋色」へと変異してしまったのだ。日常の世界を歩くには、あまりにも異質だった。
「……ありがとうございます」
素直に受け取り、それをかけてから外へ出ると、そこにはすでにエンジンをかけたバスの運転席で、園長が静かに待っていた。
「送っていくから、お乗り」
「この人たちには、本当に敵わないな……」
胸の奥がじんわりと温かくなり、少し照れくさそうに笑いながら、雪兎はバスのステップを登った。
しばらく山道を下り、バスがたどり着いたのは、雪兎が生まれ育った街の総合病院だった。中庭のベンチに目をやれば、まだ少しあどけなさが残る患者衣を纏った両親の姿があった。
実は一か月ほど前、奇跡的に両親の意識は無事に戻り、現在は経過観察を続けていると園長から聞いていた。だが、今の自分が直接姿を見せたら、大切な家族への未練が断ち切れなくなり、この過酷な旅へ向かう足が鈍ってしまう――そう恐れた雪兎は、これまで電話で安否を確認するだけで、「遠方での用事が忙しくてすぐには帰れない」と嘘をついていた。
両親は、電話口の息子が纏う深刻な空気の裏に何かを察してはいたが、それ以上深く追及せず、ただ心配そうに「ケガだけはするんじゃないぞ」とだけ告げてくれていていた。
木陰から、その懐かしい背中をそっと見つめる雪兎。
「父さん、母さん……。太奈都は、俺が絶対に連れ戻してくるから。……行ってきます」
声にならない想いを飲み込み、二人の姿を目に焼き付けると、雪兎は静かに病院を後にした。
再びバスのシートに身を沈め、前方を向いたまま静かに呟く。
「園長、ありがとうございます。……もう一か所だけ、寄ってほしいところがあるんです」
園長は何も言わずにふっと微笑み、再び穏やかにハンドルを切った。
街の一角、見覚えのある喫茶店の向かい側の路肩にバスが静かに停車する。車窓越しに店のなかに目を凝らすと、そこには懐かしい優妃の姿があった。ガラス越しに彼女の横顔を見た瞬間、締め付けられるような痛みが胸を熱くさせる。あの日、暗い決意を胸に旅立った自分へ、彼女がかけてくれた言葉の数々が脳裏によみがえった。
雪兎はそっと胸元に手を当て、心の中で誓う。
「――必ず、帰ってくる」
その言葉で、心の中の迷いの霧は完全に晴れ渡り、意志はさらに強固な鋼となった。
「園長、ありがとうございました。もう大丈夫です。山荘へ戻りましょう」
その澄んだ声を聞き届け、園長は静かにアクセルを踏み込んだ。
一方、喫茶店のカウンターに立っていた優妃は、ふと背後から向けられた強い視線に気付いたように窓の外へと視線を走らせたが、そこにはすでに、走り去る一台のバスの影すらなかった。
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すっかり日が落ちたころ、山荘へ戻ってきた雪兎たち四人は、余計な言葉を交わすこともなく、ただ静かに最後の晩餐を共にした。
そして、ついにその日がやってきた。悪魔の世界へと繋がる扉が開く、運命の当日。一行はオーリから指定された座標を頼りに、見知らぬ街の住宅街を抜けた先にある河川敷の、うっそうとした雑木林の中へと足を踏み入れていた。
周囲を見渡し、雪兎は落ち着かない様子で呟く。
「こんな何気ない河原の片隅が、本当に悪魔の世界に繋がっているのか……?」
不安を隠せない雪兎に、園長は落ち着いたトーンで答えた。
「ここ自体じゃないよ。扉はあそこさね」
園長が指さした先には、水面に波打つ、白く冷たい月明かりの反射があった。彼女はすっと目を細め、呟くように低い声で奇妙な呪文を紡ぎ始めた。
――その瞬間。水面に映る月が、不気味な青白い光を帯びて激しく明滅した。
「これで、あとはあそこに飛び込むだけさね。向こう側へと渡れるよ」
あとはオーリを待つばかり――のはずだった。しかし、刻一刻と迫るタイムリミットに焦がされた雪兎は、ついに我慢の限界を迎え、苛立ちを声音に滲ませる。
「オーリさんはまだなのか……! 早く太奈都を連れ戻しに行かないと、手遅れになっちまう!」
その焦燥感を冷徹に分析するように、ルミエールが腕を組んで言った。
「もしかしたら、オーリは怖気づいて土壇場で逃げ出したのなんじゃ……。だけど、『終焉の境界門』は、どうしてもあと一人が足りないと開けられないはずよ」
冷静すぎる現実論に雪兎の息が詰まる中、園長がまるで前々から考えていたかのような、突拍子もない提案を口にした。
「そうとは思いたくないけどねぇ……。まあ、この際だ。人数合わせのために、誰かそこらの人間を一人連れていくしかないかね」
「は……? 園長、何言ってるんですか急に! 都合よくそんな人が……」
絶句する雪兎の視線の先を、園長はすっと静かに指さした。そこには、河川敷の散歩途中なのか、「なんだあいつら?」と不思議そうにこちらを覗き込んでいる、ごく普通の中年男性の姿があった。
冷や汗が背中を伝うのを覚えながら、雪兎は必死で首を振る。
「いやいや、園長それはさすがに危険すぎますって! 最悪、大戦の真っ只中に連れ込んだら殺してしまうかもしれない。それに、『終焉の境界門』を開くには、悪魔五席に匹敵するほどの強大な力を持つ人間が五人必要なんじゃなかったんですか……!」
「正確にはね、門をこじ開けるための質量としてのエネルギーが五人分必要なのさね。足りない分は、私の全霊の魔力で補填するから、頭数さえ揃えば仕組みとしては何とかなる。第一、あんな一般人が門を渡れるわけがない。向こうの世界へ行くには天使か悪魔の血統が必要だからね。普通の人間は、門をくぐった瞬間にこちらの世界へ激しく弾き出される。だから、必然的にあいつはすぐ安全に帰ってくるのさね」
さらりと言ってのける園長だったが、その表情の奥には言い知れない覚悟が覗いていた。
「それにね――こんな不条理な賭けに巻き込む以上、万が一のことがあれば、私がこの命に代えてでもあの男は必ず守り抜くよ」
それは、今までに一度も聞いたことのない、底知れぬ重みと慈愛に満ちた園長の真剣な声色だった。彼女もまた、一刻を争う事態の深刻さを骨身にしみて理解していたのだ。
その背中から放たれる圧倒的な覚悟の気配に感化されたのか、無言だったガルが、ごつりとうなずいて一歩前に出た。
「……園長、オレもだ。万が一があれば、オレが命がけであの男を守りながら連れ戻してやるよ」
「ガル、頼もしいねぇ。……さあ、善は急ぎなさい!」
そのやり取りを聞き、雪兎は胸の奥が熱く熱せられるのを感じた。ここにいる全員が、自分のために、そして太奈都のために、命を懸けてここまで動いてくれている。こみ上げる感謝を胸に、雪兎は再び強く褌を締め直した。
「――よし、行こう!」
力強い号令とともに、園長、ルミエール、ガルが頼もしく頷く。
次の瞬間、ガルが巨体を揺らしながら件の一般男性の元へと音もなく走り寄り、「すまない、ちょっと手伝ってくれ」と問答無用で軽々と肩に担ぎ上げた。
突如として怪力の大男に担ぎ上げられたことで、男性は借りてきた猫のようにすっかり静まり返り、声すら出せずにガルの背中で固まっている。
そんな滑稽かつ緊迫した一幕を乗せたまま、一行は青く不気味に発光する水面――悪魔の世界へと続く禁断の門へ向けて、一斉に飛び込んだ。




