15、覚醒
洞窟の天井から冷たい水滴が一定のリズムで滴り落ち、やがてその数滴が雪兎の額を濡らした。
「うっ……」
とくぐもった呻き声を漏らしながら、彼は微かに意識を浮上させて上体を起こす。ぼやける視界の先で、雪兎は息を呑んだ。
出口の光こそ一切届かないものの、洞窟の壁そのものが青白く、まるで生き物のように神秘的な脈動を打って煌めいている。顔を上げれば、底知れぬ闇が天井へと続いており、自分がどれほどの深度へと墜落させられたのか、推し測ることもできなかった。
あいにくすぐ傍らを地下水脈の川が流れていたため、すくい上げた冷水で乱れた顔を引き締め、雪兎は冷ややかに現実を整理する。
――ここで力を蓄えろ。ルミエールはそう言っていた。
ならば、ただこの暗がりに身を置いていればいいのだろうか? いや、他にすべき手立てがあるわけでもない。ただ、「ちゃんと帰ってこい」と告げた彼女の最後の言葉だけが、胸の奥に焼き付いていた。他に選択肢などない。雪兎はわずかな決意を胸に、まずは入口を目指して歩き出す。
上へ、上へと続く気配を頼りに足を進めるが、どれだけ歩けども出口の光は一向に差してこない。業を煮やした雪兎は、直接壁を這い上がろうと試みたが、絶えず滴る水と滑りやすい苔に阻まれ、爪先すらまともに掛からない。絶望的なまでの無力感に歯噛みしながら、彼はその試みを断念せざるを得なかった。
数時間、あるいはそれ以上――時の感覚さえ麻痺していく暗闇の中を彷徨ううち、疲弊した精神は確実に彼の足を蝕んでいった。適当な岩陰を見つけた雪兎は、冷え切った石の床に背中を預け、泥のような眠りへと落ちていった。
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そのころ、地上の洞窟入口付近。
ルミエールは、雪兎をその深淵へと突き落とした後も、しばらくの間、ぽっかりと口を開けた闇の前に佇んでいた。波立つ心を押し隠すように微動だにしない彼女に、背後から音もなく近寄ってきた園長が声をかける。
「修行もいよいよ第二段階だね。雪兎には少々荒療治が過ぎるが……まあ、あの子が自力で這い上がってくるのを信じて待つとしようかね」
その穏やかながらも確信に満ちた言葉に、ルミエールは小さく息を吐き出す。
「はい……残された時間が限られていることもありますので……」
名残惜しそうに、そして深い憂いを帯びた瞳で洞窟の先を見つめるルミエールの肩に、園長は優しく手を添えた。
「今は私たちにできることなど何もないよ。さあ、山荘に戻って暖をとっていようかね」
うなずく代わりに、ルミエールはもう一度だけ深い闇の奥へと視線を投げ、静かに踵を返した。
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井戸の底のような闇の中では、日付の概念すら意味を失っていた。
目を覚ました雪兎は、飢えと疲労に鞭打つように再び入口を目指して歩き始める。だが、どれほど歩いても出口は姿を現さない。それどころか、緩やかな上り坂を進んでいたはずが、いつの間にか足元は下り坂へと変わり、進んだはずが気づけば先ほど見た奇妙な岩肌の景色へと引き戻されている。そこはまるで、人間の意志を嘲笑うかのような、終わりのない巨大迷路そのものだった。
限界まで歩き、野宿し、また歩く。川の水を啜って飢えを紛らわせていたのもつかの間、やがてその細やかな生命線すらも底をついた。
極限まで削られた肉体は急速に鉛のように重くなり、思考の糸はプツリと途切れていく。足がもつれ、ついに膝から崩れ落ちるように雪兎は地面へと倒れ伏した。絞り出すべき気力も、指先をわずかに震わせる熱量すらも、彼の体にはもう一滴残っていなかった。
すべてのエネルギーが枯渇し、意識の端が漆黒の闇へと溶け込んでいく――まさに「生死の境」を彷徨っていたその瞬間。
洞窟の壁を這う青白い光が、まるで意思を持つかのように波打った。光の粒は靄の姿に変貌し、無防備に倒れ伏す雪兎の肉体へと群がり、包み込んでいく。
次の瞬間、奇異なる現象が起きた。雪兎の肉体は、枯れ果てた大地が恵みの雨を貪るように、その神秘的な靄をまるで水分を求めるかのように「ごきゅごきゅ」と激しい勢いで吸収し始めたのだ。
貪欲なまでの吸収が収まると、ほんの少しの静寂ののち――指一本すら動かせなかったはずの雪兎の体が、おもむろに起き上がった。
「……っ!」
ただ体力が全回復したという次元ではない。血管の隅々にまで底知れず強大なエネルギーが満ち満ちていく、まるで全く別の生命へと生まれ変わったかのような、圧倒的な充填感。足取りは羽のように軽く、肺腑を衝く空気すら甘美に感じられた。
さらに、迷路のように入り組んでいた洞窟内の「気流」が、肌で痛いほどに感じられるようになっていた。どこへ向かえば風が抜け、どこが正解の道なのか――本能が、進むべき軌道を鮮明に指し示していた。
迷うことなく、雪兎は出口へと一直線に駆け抜けていった。
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雪兎が深淵の底で息を吹き返したと時を同じくして、地上の山荘。
縁側に腰掛けていた園長が、ふと耳を澄ますように首を傾げた。
「……微かだが、鼓動が聞こえたよ。もうすぐ戻ってくるね」
老いた足取りとは思えない軽やかさで山荘を飛び出す園長。その背中を追うように、ルミエールもまた息を呑んで駆け出した。
二人が洞窟の前に立ち、息を殺して待ち構えて数刻。闇の奥から、確かな足音が響いてくる。やがて、差し込む外光に照らし出されて見慣れた顔が姿を現したとき、園長とルミエールは思わず安堵の息を漏らした。だが、次の瞬間、彼らの瞳は驚愕に見開かれることになる。
「ただいま! ちゃんと帰ってきましたよ! 園長も来てたんだね」
あけすげらな笑みを浮かべ、どこか人間離れした、底知れぬ「覇気」ともいうべき重厚な雰囲気を纏った雪兎がそこに立っていた。
園長は、じっと雪兎の顔を凝視したまま、低く神妙な声で呟いた。
「……雪兎、お前は……『バーサーカー』の血筋だったんだね」
一瞬、きょとんと首を傾げる雪兎。その少年の瞳は、かつての温和な黒ではなく、妖しくも鮮烈な緋色に染め上げられていた。
「まあ、無事に生還できたのなら何よりだよ。詳しい話は、とりあえず山荘に戻ってからにしようかね」
張り詰めた空気のまま、三人は山荘へと引き返した。
食卓の席につくなり、待ち構えていたルミエールによって次々と料理が並べられる。久しぶりの、そして限界を迎えていた肉体が求める栄養に、雪兎はまるで野獣のように、あるいは底なしのブラックホールのように驚異的なスピードで胃袋へと食べ物をかき込んでいった。ルミエールも負けじと給仕の腕を振るい、数人前は優に超える皿が瞬く間に空になっていく。
ようやく満腹感が訪れたのか、雪兎の手がぴたりと止まり、静寂のなかに熱いお茶の湯気が立ち上る。一息ついたそのタイミングで、園長が切り出した。
「さて、まずは無事の帰還を祝おうね。だが、悠長に浸っている暇はない。早速だが、修行の『最終段階』についての話をしようか」
園長の言葉に、ルミエールは静かに耳を傾ける。
「次はね、いよいよ本番――悪魔の世界へ踏み込むことを想定した『実践訓練』だ。明日にはガルも合流する。あいつと、そしてルミエールを相手にした模擬戦闘を行うよ」
その過酷な宣告に怯えるどころか、雪兎の瞳の奥の緋色が力強く輝いた。
「わかりました! ガルさんとも久しぶりだし、会えるのが楽しみです」
その佇まいは、以前の頼りなげな少年のそれではない。確かな自信と、折れない意志を宿した戦士のそれに変貌していた。園長とルミエールは、雪兎の変化の本質を無言のうちに察し、静かに見守るのだった。
「あ、そうだ……!」
雪兎はふと思い出したように身を乗り出す。
「その後の魔界の状況はどうなってるんですか? オーリさんから何か連絡は?」
行方不明のまま囚われている太奈都の影が脳裏をよぎり、切実な問いが飛び出す。
「オーリの話ではね、『終焉の境界門』をこじ開ける作業が予想以上に難航しているそうだ。だから、まだ多少の時間的猶予はあるよ」
「そうか……。でも、魔界にいる太奈都を思うと、一刻も早く……いついかなる時でも飛び出せる準備をしておかないと」
新たな決意を胸に、雪兎の拳が固く握りしめられた。
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翌朝。
山荘へと続く雪道を、轟音とともに一台のバスが大きく横揺れしながら登ってきた。扉が開き、圧倒的な巨躯――ガルが姿を現す。
待ち構えていた雪兎は、見るやいなや満面の笑みで駆け寄った。
「ガルさん、お久しぶりです!」
しかし、相変わらずガルは雪兎を一瞥すらせず、前を向いたまま微動だにしない。かつてなら戸惑っていた雪兎だが、今やその無愛想すらも彼の個性として受け入れ、「相変わだな」とどこか嬉しそうに笑う余裕すら身につけていていた。
やがて、山奥の切り開かれた雪原の特訓場へ到着した四人。園長は、冷たい風が吹き抜ける中で告げた。
「さて、実践訓練を始めるがね。雪兎、お前の血に眠るのはバーサーカー――理性を代償に神がかった強靭な肉体と狂気的なまでの戦闘力を得る特化の存在だ。だが、一歩間違えば『理性が飛び、暴走する危険』を孕んでいる。だからこそ、極限の戦場に身を置きながらも理性を手放さぬよう、自らを律する訓練をするんだよ。まあ、万が一暴走したところで、私たちが止めてあげるから安心しなさい」
そう言って、ルミエールが懐から小さな手鏡をスッと差し出した。受け取った雪兎が鏡をのぞき込むと、そこには鮮やかに変色した自身の「緋色の瞳」が映し出されていた。
「なんじゃこりゃあ……!」
己の身体の奥底に潜む非人間的な変異に驚愕しつつも、雪兎はすぐに真剣な眼差しへと戻す。太奈都を取り戻すためならば、自分の肉体がどう変質しようと構わない。覚悟の炎は、すでに揺るぎなかった。
その日から、木刀を用いたガルとの泥臭くも苛烈な模擬戦闘が幕を開けた。
剣技の冴え、間合いの把握、そして肉弾戦のぶつかり合い。己の限界がどこにあるのかを知り、それを一歩ずつ、しかし確実に対岸へと押し上げていく。ルミエールと園長は、その血を分かち合うような特訓をただ静かに、しかし鋭い眼光で見守り続けた。
そして――季節が移ろい、幾度目かの激闘を重ねたある日のこと。
日を追うごとに戦闘能力を飛躍的に開花させていた雪兎は、この日、かつてないほどの境地に達していた。どれほど手加減しているとはいえ、巨漢のガルを相手に、雪兎の猛攻はすでに押し気味ですらあった。
全身のボルテージが最高潮に達し、雪兎がすべての力を一点に収斂させた「極限の拳」を叩き込もうと踏み込んだその瞬間――。
ガルは、本能の深層で警報が鳴り響くのを感じ取った。これは訓練の範疇ではない。そう直感したガルは、思わず反射的に、本気のカウンターの拳を雪兎へと叩き込んだ。
ドゴォッ!!
凄まじい衝撃音とともに、雪兎の体は周囲の大木を何本をもなぎ倒しながら、砲弾の如く吹き飛んでいった。
意識が暗闇へと引きずり込まれかけた、その刹那。雪兎の肉体を守るかのように、彼の全身から猛烈な「衝撃波」が爆発四散した。周囲の木々に積もっていた雪が雪崩のように雪崩れ落ち、さらには強烈な熱波によって一帯の雪が一瞬にして融解していく。
ゆらり、と。
地に這うはずだった雪兎が、不気味に起き上がった。その顔に浮かんでいたのは、普段の彼からは想像もつかない、冷徹で狂気に満ちた不敵な笑み――。
にやり、と歪んだ笑みの刹那。雪兎の全身から、周囲の空気を凍てつかせるほどの殺気が解き放たれた。まるで怒涛の獣の如き勢いでガルへと肉薄し、一撃のもとに相手の息の根を止めかねないほどの殺意を孕んだ凄まじい突きが放たれる。
「――っ危ない!」
一瞬の猶予もない。園長、ルミエール、そしてガルの三人が同時に動き、文字通り三人がかりで暴走する雪兎を取り押さえた。容赦のない当身が幾重にも叩き込まれ、ようやくその巨獣の如き気配がフッと途切れ、雪兎は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
静まり返った雪原。気絶した雪兎の顔を見つめながら、園長は小さく、しかし重々しく呟いた。
「……想像以上の、底知れぬ力だね……」
その日の夜、山荘の食堂には、青ざめた顔で「本当にすみませんでした……!」とひたすらに平謝りを続ける雪兎の姿があった。
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厳しい冬が去り、春の気配が山々を包み込む頃。山荘を訪れた園長は、いつになく引き締まった、重い面持ちで告げた。
「オーリから連絡が入ったよ。……約一か月後、魔界からの侵攻が正式に決行される。その時を狙って、私たちも悪魔の世界へと渡るよ」
その告知を聞いた瞬間、雪兎の胸の奥で、待ち望んだ、そして決して退けない決意の炎が激しく燃え上がった。ついに、その時が来たのだ。
「それとね……これは、事前に私があちこちへ手配しておいた特注品さね。ようやく届いたから、お前たちに渡しておくよ」
園長が足元に置かれた大きな袋から、ごそごそと無骨な武具を取り出して並べていく。まず、彼女が雪兎に手渡したのは二振りの剣だった。
「雪兎、それは退魔の剣と滅魔の剣。これからの戦いできっとお前の命綱になる。残された時間は、その剣を身体の一部にするために使いなさい」
冷たく研ぎ澄まされた二振りの刀身を一目見た瞬間、雪兎はその鋭美な輝きに見入った。
続いて、園長は袋から美しい細工の施された一つの矢筒を取り出す。
「ルミエール、これはお前へ。自らの天使の力を、そのまま実体ある矢へと変換して放てる特製の矢筒だよ」
ルミエールは厳かにそれを受け取り、深く、敬意を込めて頭を下げた。
最後に、園長が取り出したのは、重厚な金属光沢を放つ一対のガントレットだった。
「ガル、お前にはこれだ。重力震の籠手。お前の本来の怪力と合わされば、並の敵など一撃で砕けるだろうさね」
ガルは満面の、子どもが宝物を見つけたような無邪気な笑みを浮かべてそれを受け取ると、さっそく両腕にはめて力いっぱい空中で振りかざそうとした。
「コラ、バカな真似はやめなさいっ! 家が崩壊するでしょうがっ!」
ルミエールの鋭いツッコミに、ガルは「しゅん……」と体を縮こまらせて全力で反省モードに入る。ピリッと張り詰めていた空気がわずかに和み、一同は小さく笑い声を漏らす。
だが、その瞳の奥には、これから待ち受ける未知の戦場を見据える確かな光が宿っていた。来るべき決戦に向け、彼らはそれぞれの決意を胸に、静かに気を引き締め直すのだった。




