14、試練
翌日の早朝。空がまだ微かに青みを残し、山々の輪郭すら曖昧な薄明かりの中、園長はルミエールに「それじゃあ、この子をよろしく頼んだよ」と告げ、そして雪兎には「怪我だけはしないように、頑張るんだよ」と優しく声を残し、一人で保育園バスに乗り込んで山荘をあとにした。
遠ざかるバスのテールランプの光が見えなくなったその瞬間、ルミエールは待っていましたと言わんばかりに、容赦のない現実を雪兎に突きつけた。
「さあ、甘えはここまでです。まずは基礎中の基礎、徹底的な肉体の土台作りから始めてもらいます。この山道を登った先にある『木こり場』まで走りなさい。そこに放置してある大木を一本綺麗に切り倒し、それをすべて暖炉用の薪のサイズに細かく割り直してもらう。外の薪置き場が完全に満杯になるまで、今日の作業は終わりません」
そのあまりにスパルタな初日の宣告に、雪兎は「はいっ!」と、まずは気合だけで元気よく返事をし、足早に山道を登っていくルミエールの後ろ姿を必死の形相で追いかけた。
――この時の雪兎は、まだ心のどこかで(なんだ、薪割りなんて力仕事だろうけれど、そんなに死ぬほどきつそうな修行には見えないな……)と、どこか甘く高をくくっていた。だが、その愚かな考えは、ほんの数十分後には木端微塵に打ち砕かれることになる。
木こり場へと向かう道中は、人間が歩くことすら想定されていないような、足元が崩れ落ちるほどの凶悪なほどの急斜面だった。その途中には、苔むした垂直に近い岩肌がむき出しになった絶壁があり、雪兎はそこを両手足の爪を剥がすような思いで這い上がらなければならなかった。
目的地である木こり場にたどり着いたころには、雪兎の肺は破裂するかのように激しく鳴り響き、全身の体力はすでに一滴残らず底をつき、その場で這いつくばって動けないほどの泥人形と化していた。そんな、早くも虫の息の雪兎の惨めな姿を一瞥し、ルミエールは冷たく小さな深呼吸を一つすると、「……少しだけ、五分間だけ休憩を与えます。そのあと、すぐに木こりの作業に入りますからね」と告げ、まだふらふらと意識が朦朧としている雪兎を横目に、手元に用意した巨大な斧をまるで軽業師のように優雅に一振りした。
シュッ、と鋭い風切り音が響いた瞬間、目の前にそびえ立っていた太い大木が、バターのように滑らかな音を立てて音もなく綺麗に真っぷたつに切り倒された。
――いったい、あの華奢な体のどこにあんな常軌を逸した怪物が眠っているというのか。あまりの手際よさと、物理法則を無視したような圧倒的な破壊力を目の当たりにし、雪兎は口を半開きにしたまま完全に絶句して固まった。
「さあ、次はあなたの番です」
冷徹な宣告とともに手渡された斧を受け取る雪兎。しかし、その斧はまるで鉄の塊のように信じられないほど重く、持ち上げるだけで腕がプルプルと痙攣した。気合を入れ直して数回、全力で木に向かって打ち込んでみるものの、刃は木肌の表面を浅く削るだけで、到底切り倒せるような手応えは微塵もない。
それでも歯を食いしばり、自分の体重を乗せるようにして何十回も斧を振るい続け、ようやく全体の十分の二ほどの切り込みを入れることができたころには、雪兎の若い手のひらの皮は完全にめくれあがり、鮮やかな血豆がいくつも破裂して真っ赤な血に染まっていた。冬の訪れを告げる凍てつくような冷たい山風がその生傷に容赦なく吹き付け、指先の感覚はとっくに消え失せ、斧の柄をまともに握ることすらままならない激痛が全身を駆け巡った。
すでに自分の割り当て分の巨大な木々をすべて美しく均等な薪に切り終えていたルミエールは、血まみれの手に耐えながら不格好に斧を振るう雪兎の姿を、少し離れた岩の上から無言でじっと見守っていた。
やがて、空の太陽が冷たい西の山稜へと傾きかけ、周囲の森が急速に深い群青色の影に飲み込まれ始めたころ、ルミエールは冷ややかな声を投げた。
「このペースでは、完全に闇夜に包まれてしまいます。初日はここまでにして、山荘へ戻りますよ」
そう言い放つと、彼女は自分が割った大量の薪を、まるで自分の体の一部であるかのように背負子へとこれでもかと山盛りに積み上げ、頑丈な麻縄で手際よく縛り上げた。雪兎も自分の分の薪を背負子に積もうとしたが、あまりの疲労と腕の激痛のせいで思うように積み上げられず、せいぜい背負子の骨組みの半分ほどの高さまでしか積むことができなかった。だが、それでも今の満身創痍の雪兎にとっては、そのわずかな量の木材ですら、巨大な鉄の塊のように重く感じられた。来たばかりの険しい山道を、その重荷を背負ったまま一歩一歩這いつくばるようにして帰ることは、想像を絶する苦行だった。
途中で何度も足がもつれ、道端の石に躓きながらも、何とか気力だけで山荘の玄関口にたどり着いたときには、周囲の山々はすっかり漆黒の夜の闇のなかに沈みきっていた。
歯を食いしばりながら、今日一日かけて命がけで切ってきた薪を外の薪置き場にきれいに並べていく。しかし、ルミエールが作り上げた圧倒的な量の薪の山と、自分が血を流して集めた分の山を並べて見比べてみると、自分が持ってきた分は、元々あった備蓄の半分程度にも満たない、あまりにもみすぼらしい量しかなかった。
――これだけの量では、明日一日を乗り切るのですら到底足りないのではないか。
己の無力さと、これから待ち受ける過酷すぎる現実の壁の高さに、雪兎の心は音を立ててポッキリと折れかけた。だが、それ以上に絶望的なのは、そのわずか半分しかない薪の量ですら、この山荘の「毎日の料理の煮炊き、お湯を沸かす風呂、そして夜通し燃やす暖炉の燃料」として、一日だけでほとんどすべてが綺麗に消費し尽くされてしまうという残酷な事実だった。
――先がまったく見えない。果てしない絶望のトンネルのなかで、雪兎は初日の夜にして早くも完全に精神を追い詰められていた。
だが、冷徹に見えたルミエールは、そんな絶望の淵で項垂れている雪兎を冷たく見捨てたりはしなかった。彼女はそっと近づき、静かな声でこう告げた。
「……初日なのですから、最初からすべてがうまくいくはずがありません。明日もまた朝の来ぬうちから山に入りますからね。今夜はしっかりと栄養のあるご飯を食べて、温かいお風呂で体の芯まで傷を癒やし、ぐっすりと眠りなさい」
それだけ短く優しい言葉をかけると、彼女は手際よく台所に立ち、素早い手つきで温かな夕食の支度を始め、あっという間に薪の風呂にたっぷりと湯を沸かしてみせた。雪兎も本当は料理の準備を手伝いたかったのだが、全身の筋肉が限界を超えて悲鳴を上げ、指先はパンパンに腫れ上がっており、もはや立っていることすら奇跡のような状態だった。リビングの木の椅子に腰掛けた瞬間、強烈な睡魔と疲労の津波に飲み込まれ、雪兎はそのまま意識を手放して眠りの淵へと落ちかけていた。
――その時だった。
乾いた空気を切り裂くような「スパーンッ!」という鋭い音が響き渡り、雪兎の頭部を容赦ない衝撃が襲った。
はっと現実へ引き戻され、飛び起きるように顔を上げると、目の前にはルミエールが冷ややかな眼差しで立っていた。
「……気を失わないでください。ちゃんと夕食を食べて、お風呂で体をほぐしてから、すぐにベッドに入りなさいと言いましたよ」
雪兎は、すでに全身の筋肉が乳酸で凝り固まり、鉄板のようにバキバキに悲鳴を上げている自分の肉体を気力で無理やり引きずり起こし、目の前にある温かな夕食の席へと向かった。食事をどうにか胃袋にかき込んだあと、すぐに例の薪風呂へと飛び込む。湯船に浸かった瞬間、全身の生傷と筋肉の激痛のなかに、まるで秘薬でも溶けているかのようにジワーっと心地よい温もりが染み渡っていく。不思議なことに、そのお湯にはかすかに薬草のような爽やかな香りが漂っており、あれほど鉛のように重かった疲労の澱が、スーッと体の外へ溶け出していくような奇妙な回復感を覚えた。
風呂から上がり、最低限の身支度を整えてふかふかの布団にもぐり込んだ瞬間、雪兎は泥沼に引きずり込まれるような重い眠気のなかへと、一瞬で意識を沈めていった。
翌日の朝。空の向こうがまだほんのりと青いヴェールを纏っているだけの、夜が明け切る前の冷え切った早朝の闇のなか。雪兎の意識を覚醒させたのは、外の冷気ではなく、リビングからリズミカルに響いてくる、包丁がまな板を叩く心地よい一定の音色だった。
昨日の過酷すぎる労働のせいで、全身の筋肉はまるで全身を石のハンマーで打ち砕かれたかのような激しい痛みに包まれており、最初のうちは布団から上半身を起こすことすらかなりの重労働だった。だが、不思議なことに、昨夜あの薬草の風呂に浸かった効能だったのか、肉体が完全に使い物にならなくなるような致命的な疲労感は嘘のように消え失せ、這うようにしてどうにか起き上がることができた。
鉛のように重い体を引きずるようにしてリビングへと向かうと、台所の小さな明かりの中でテキパキと朝食の仕込みをしているルミエールの後ろ姿があった。雪兎が起きてきた気配に気づくと、ルミエールは振り返ることなく、淡々と言い放った。
「おはようございます。朝食をすませたら、すぐに今日も山へ行きますよ。準備を怠らないように」
起きたばかりの放心状態の少年に容赦のない言葉を浴びせるルミエール。体中が筋肉痛の激痛で一歩動かすだけでも冷や汗がにじむ状態だったが、太奈都を悪魔の牙から連れ戻すという絶対の目的に比べれば、こんな痛みななど砂粒ほどの価値しかない。「はい!すぐ支度します!」と力強く返事をし、再びあの過酷な木こり場へと向かう日々が始まった。
そうして、死線をくぐり抜けるような過酷な山道の上り下りを数え切れないほど繰り返し、命がけの試練のなかで地獄のような日々を耐え抜くうちに、気がつけば一か月半という時間が音もなく過ぎ去っていた。
季節は冬の底を抜け出し、凍てつく雪景色は徐々に和らいで、窓の外の空気には春の気配がかすかに混じり始めていた。朝、山荘の扉を開けて外の空気を吸い込むと、真っ白な自分の吐息が冷たい春の朝空のなかにスッと消えていく。足元はまだ泥濘が残っており、手がかじかむような厳しい寒さが続いていたが、その過酷な環境のなかで生き抜いてきた雪兎の体躯は、かつてのひ弱だった面影を完全に脱ぎ捨てていた。
今の雪兎は、薪を背負って急斜面を登るスピードこそまだルミエールの圧倒的な身軽さには到底かなわないものの、持ち帰る薪の総量や一本の木を綺麗に割り切る効率においては、すでにルミエールとほぼ同等レベルの量を軽々とこなせるまでになっていた。いまでは、わざわざルミエールに同行してもらう必要もなく、雪兎一人だけで単身で木こり場へ向かい、すべての作業を完璧に完遂して帰ってくることができるようになっていた。
外の大きな薪置き場が、隙間すらないほど分厚く、美しく積み上げられた薪で完全に満杯になったその日の夕方。その見事な仕事ぶりを確認したルミエールは、珍しく柔らかな、そして確かな誇らしさを称えた表情で雪兎に歩み寄り、改まって声をかけた。
「……雪兎。あなたのその基礎的な体作りと、肉体の土台を叩き込む修行は、これで合格、十分に終わりにしていいでしょう。明日からは、これまでの肉体鍛錬とは全く異なる、次の段階の新しい修行に入りますよ」
その言葉を聞いた瞬間、雪兎の胸のなかには、苦難の第一幕を乗り越えたという熱い達成感と、さらなる高みへ挑む闘志が沸き起こった。彼は鍛え上げられた逞しい肉体をシャンとさせ、「はい!次の修行も、死ぬ気でやり抜きます!」と、以前とは比べ物にならないほど太く、力強い返事を響かせて山荘のなへと戻っていった。
その日の夜。いつも通り栄養満点の夕食をきれいに平らげたあと、二人はリビングの暖炉の前に置かれた二つのロッキングチェアに深く腰掛け、湯気の立つ熱いハーブティーを啜りながら、パチパチと燃え盛るオレンジ色の炎の揺らぎを静かに眺めて暖をとっていた。
静寂のなかに薪が爆ぜる音だけが響く中、ルミエールはふと、静かなトーンで雪兎に問いかけた。
「ねえ、雪兎。この山荘にやってきてからずっと、あなたに一つだけ、以前からずっと気になっていたことがあるの。あなたは、どうしてそこまで命を賭けて、太奈都という少年に執着し、大切にできるのかしら? あなたたちはお互いに血のつながった本当の兄弟ではないのでしょう? それなのに、どうして自分の命を投げ出すような真似までして、彼を救い出そうと必死になれるの?」
この山荘にきて以来、ルミエールとは余計な雑談を一切交わさず、ただひたすらに己の肉体を鍛え上げることに集中してきた雪兎は、その不意を突いた深い質問に少しだけ目を丸くして驚いた。だが、彼女の瞳のなかに悪意や冷笑はなく、ただ純粋な疑問の色だけがあるのを見て取ると、雪兎はすぐさま真剣で真っ直ぐな表情に戻り、ゆっくりと口を開いた。
「俺は……幼いころにあの孤児施設で育っていくうちに、物心がつくにつれて『ああ、自分は親という存在に完全に捨てられたんだな』って、嫌でも理解するようになっていったんです。この広大な世界の中で、自分という人間は最初から一人ぼっちで、誰からも必要とされていないんだという底知れぬ孤独感が胸を支配して……。当時の俺は、自分の本当の感情がどこにあるのかも分からなくなり、周りの大人や友達にはいつも作り笑いだけでロボットのように接するしかできなかった。
そんな、心を完全に凍らせていた時期に、太奈都が新しく施設にやってきたんです。それから一年ほどが経ったころ、いつも周りと馴染めず、たった一人でぽつんと部屋の隅にいる太奈都の姿が、なぜか自分の過去の姿と重なって、無性に目が離せなくなっていった。理由なんて、自分でもうまく言葉にできないんだけれど……ただ、心の奥底で、『こいつだけは、絶対にこの世界で一人ぼっちになんてさせたくない』って、強烈に思ったんです。
そのあと、今の優しい両親が俺たち二人をまとめて養子として引き取ってくれて、俺たちは正真正銘の『本当の兄弟』になれた。これからの人生は、太奈都にとって、もう二度と寂しい思いをすることのない、笑顔だけの人生であってほしいと心から願っていた。それなのに……今のあいつが、どんなに暗い闇の中で、どれほど恐ろしい絶望と孤独に震えているかを想像すると……絶対に、あのまま一人ぼっちで泣かせておくわけにはいかないんだ。俺は、何があっても絶対に太奈都を自分の手で連れ戻す。それだけが、今の俺が生きている意味なんです」
強い決意と、切実な熱情に満ちた瞳で前方の暖炉の炎をじっと見つめながら語る雪兎。
その少年の言葉の裏に隠された、あまりに深く、そして歪みのない純粋なまでの愛着と責任感の重さを聞き届けたルミエールは、何かすべてを深く納得したような、穏やかな、そしてどこか切なさを帯びた美しい笑みを浮かべて、ゆっくりと小さく頷いた。
それから、二人はそれ以上言葉を交わすこともなく、それぞれの思考のなかで夜の静けさに身を委ね、やがて深い眠りへと落ちていった。
そして迎えた、新たな朝。
いつもと寸分の狂いもないいつもの朝のルーティンをこなし、美味しい朝食を食べて支度を済ませた雪兎を連れ、その日のルミエールは木こり場へ向かう荷物を一切持たず、雪兎にも余計なものは持たせないまま、山荘の重い扉を後にした。
裏手からさらに険しい獣道を選び、険しい山体をぐんぐんと登っていくこと数十分。やがて、山肌の隠された斜面にぽっかりと口を開けた、不気味で巨大な洞窟の入り口へとたどり着いた。
足を止めると、ルミエールは静かに振り返り、その冷徹な瞳で雪兎を見据えて口を開いた。
「この山はね、大昔から神聖な天使の国との境界領域に非常に近くに位置しているの。そのため、大地そのものから微かに高密度の天使の加護のエネルギーが漏れ出しており、修行を積む者にとっては体内で眠る潜在能力を引き出すのにこれ以上ないほど適した場所なのよ。そして、目の前にあるこの洞窟の内部には、かつて天使の聖力を異常なまでに増幅させる効果を持つ特殊な古代鉱石が大量に埋蔵されているの。だから、この洞窟の奥深くに長くいればいるほど、その濃密なエネルギーが肉体に吸収され、眠っていた力がどんどん蓄えられていく。まあ、どれだけの量を体内に蓄積できるかは、その人間が生まれ持った血統や素質に完全に左右されるけれどね」
その説明を聞いた瞬間、雪兎は、自分がこれまでのわずかな一か月半という短期間でここまで異常なスピードで肉体改造を成し遂げられた理由のすべてを、深く納得したように腑に落ちた。そして、目の前に広がる薄暗い洞窟の内部を覗き込みながら、ワクワクとした探求心を滲ませてルミエールに問いかけた。
「じゃあ、これから行う次の修行というのは、この洞窟のなかにこもって、自分のなかに天使の力をガンガン蓄え込むっていうことですね!」
洞窟の奥の暗闇へと期待に満ちた視線を向ける雪兎に対し、ルミエールは珍しく雪兎の視線からわずかに目を逸らし、しかし迷いのないまっすぐな声で、冷酷な宣告を落とした。
「……そうだ。ちゃんと帰ってきなさい」
そう呟くと、ルミエールはスッと雪兎の間近へと歩み寄り、何の躊躇いもなく、その華奢な腕で雪兎の背中を力いっぱい、思い切りドンッと押し出した。
「えっ……!?」
不意を突かれた雪兎は、バランスを崩して足を踏み外し、叫び声を上げる間もなく、目の前に口を開けていた底知れぬ暗闇の洞窟の、奈落の谷底へと真っ逆様に転げ落ちていった。




