13、もう一人
孤児施設で張り詰めた一夜を過ごし、夜が白々と明けた翌日。雪兎と園長は、あの『終焉の境界門』をこじ開けるために不可欠な最後の一人の協力者へと会うため、再び保育園バスのエンジンを唸らせて山道を走らせていた。
向かう道中、雪兎はふと気づく。ガルの姿が、どこにも見当たらないのだ。不審に思った雪兎は、前を向いてハンドルを握る園長に尋ねた。
「そういえば、今回はガルさんは一緒に行かないんですか?」
「ああ、ガルは少し『境界の監視人』としての重要な役目があるからね。あの灯台へ戻ってもらったのさ。また数日後には私たちと合流する予定だから、何も心配はいらないよ」
ガルは今回同行せず、園長と雪兎の二人だけでその人物の元へと向かうようだった。
そうして、ガルの断崖の灯台とはまるで方角違いの、深い山道を数時間にわたってバスを走らせる。窓の外の景色が徐々に夕闇の絵の具を溶かしたように薄暗くなり始めたころ、深い森の麓にひっそりと佇む一軒の山荘が視界に飛び込んできた。石造りの煙突からは細い白煙が優しく立ち上っており、誰かがしっかりと生活している気配を漂わせている。
園長は山荘の軋む木の扉の前にバスをピタリと停め、「さあ、着いたよ」と助手席の雪兎に声をかけた。二人がバスを降りて敷地に入り、園長が山荘の重厚な木の扉をトントンと軽くノックする。
わずかな間を置いて、ガチャリと乾いた音を立てて扉が内側から開かれた。そこに立っていたのは、息をのむほどに圧倒的な美貌を湛えた一人の女性だった。
絵画から抜け出してきたかのような、すらりと通った高い鼻筋、月光のように冷たく涼やかな目元――。世間でいうところの『エルフ顔』という表現がこれほど似合う人間がいるだろうか。どこか現実離れした神秘的な雰囲気を纏い、まるで人間界の重力すら纏っていないかのような浮世離れした美しさだった。
雪兎がその圧倒的な美しさに言葉を失っていたまさにその瞬間、その女性は目の前に立っているのが誰であるかに気づいた途端、反射的に膝をガクンと折って地面に片膝をつき、深々と頭を垂れた。
「お久しぶりです、大て……」
しかし、その称号の続きを口にしようとしたその刹那、園長は慌てたように手をパタパタと振り、
「おっと、その名前で呼ぶのはなしっていう約束だっただろう。今はただの『園長』と呼んでおくれ」
と、その挨拶を遮るように明るい声で割り込んだ。その女性はハッとしたように顔を上げ、
「……失礼いたしました。園長、本当にお久しぶりです」
と、少し慌てた様子で言葉を改め、深い敬意を込めて挨拶をし直した。そんな彼女の緊張した肩を、園長は親しみを込めてポンと軽く叩いた。
「いやあ、久しぶりだね。こうして元気そうな顔が見られて何よりだよ。さっそくで悪いんだけれど、私たちを中に入れてくれるかい?」
その言葉を聞いた女性は、ずっと玄関先で立ち話させていたことに気づいたのか、申し訳なさそうに両手を合わせて「どうぞ、どうぞこちらへ」と温かく中へと招き入れた。
山荘の重い扉の向こうに足を踏み入れると、中は驚くほど丁寧に、塵一つないまでに綺麗に整理整頓された温かみのあるリビングだった。部屋の隅に据えられたレンガ造りの暖炉には、パチパチと心地よい音を立てて薪がくべられており、部屋全体が春のような心地よい温もりに包まれている。園長と雪兎がふかふとしたテーブル席へと促されて腰を下ろすと、わずか数分のうちに、芳醇で鼻腔をくすぐるような素晴らしい香りの紅茶が上品なカップに注がれて差し出された。冷え切った心と体が芯から解きほぐされるような、この上なくホッとする空間だった。
そうして、温かい紅茶で一息ついたあと、園長はさっそく今回の旅の核心である目的を静かに切り出した。
「二人はまだ正式な自己紹介がまだだったね。雪兎、彼女の名前はルミエール。祖父が神聖な天使の血を引く、いわゆるクォーターなのさ。そしてルミエール、こちらは雪兎。あなたもおそらく、雪兎がずっと昔にうちの施設へやってきた幼いころに、一度どこかで顔を合わせたことがあるはずだよ」
園長がスムーズに二人の紹介を済ませる。雪兎はすでに、門を開けるための「最後の一人」に会いに行くのだと聞かされていたため、そこまで過剰には驚かなかった。しかし、ルミエールの方にとっては青天の霹靂だった。自分が天使の血を引くクォーターであるという秘密を、初対面の少年と同席するやいなやこんなにあっさりと告げられ、彼女の端正な顔がわずかに驚愕に染まった。だが、彼女はただ者ではない直感からか、そこに何か並みならぬ重大な事情があると瞬時に察し、あえてその出自についての詮索は深く追及してこなかった。
それから、園長は静かに、今回この山荘を訪れた本当の理由を澱みなく淡々と語り始めた。
太奈都の身に起きた異形の変異のこと。冷酷な野望を抱く『嫉妬の悪魔』の存在。大切な弟をその悪魔の掌中から連れ戻すため、これから始まる大戦の最中に悪魔の世界へと単身で飛び込み、『終焉の境界門』をくぐって天使の国へと渡らなければならないこと。そして、その生死を分かつ過酷な計画を成し遂げるために、もう一人の「天使か悪魔の力を持つ者」として、どうしても彼女の力が必要なのだということ。
すべての経緯を話し終えたあと、ルミエールはしばらくの間、深い思案の海に沈むように沈黙していたが、やがて静かに顔を上げ、凛とした声で話し始めた。
「……事情はすべて飲み込めました。園長からのお言葉であれば、私でよければ、この命を賭けて力になりましょう」
彼女は、これから足を踏み入れるのが生還者の少ない危険な戦場であるにもかかわらず、一切の迷いを見せずに二つ返事で協力を承諾してくれた。そして、彼女はさらに一歩踏み込んだ現実的な懸念を口にする。
「ですが、そのような命がけの大規模な潜入作戦であれば、仲間はもう少し――それこそ大勢で募った方が、生存率も上がるのではありませんか?」
たしかに、戦力は多ければ多いほど心強い。そう思った雪兎が思わず園長の顔を覗き込むと、しかし園長はその合理的な提案を一刀両断するように首を横に振った。
「たしかに大人数で進軍した方が心理的な心強さはあるだろうね。けれど、今回の私たちの最大の目的は、あくまで敵の懐から太奈都をこっそり連れ戻すことだ。そうなると、大軍で目立つよりも、少数精鋭で影のように隠密で動ける方が圧倒的に都合がいいのさ。それにね、あの『門』を物理的にこじ開ける仕掛け上の都合としても、どうしても最低五人の頭数が絶対に必要不可欠なのさね」
園長の理路整然とした説明に、二人は納得したように小さく頷いた。だが、ルミエールにはもう一つ、どうしても看過できない重大な懸念があったようで、先ほどよりも鋭い眼差しを雪兎に向けながら被せるように話し出した。
「もう一つ、どうしても看過できない大きな懸念があります。それは、目の前にいる雪兎君についてです。見たところ、彼からは天使としての神聖な気配や力は微塵も感じられませんし、肉体的な強さも普通の人間と何ら変わりない、か弱い少年にしか見えません。そんな彼を戦場に連れいけば、足手まといになるどころか、一瞬で命を落とすことになります」
ルミエールの指摘があまりにも正論すぎて、雪兎は痛いところを突かれたように言葉を失い、ただうつむくしかなかった。いつか園長に自分の隠された力について相談しようと思っていたが、まだその機会を得られていなかったのだ。
そんな重苦しい空気の中、話を向けられた園長は、不敵に口の端を持ち上げ、まるで全てを予期していたかのような底知れぬ笑みを浮かべてルミエールの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ふふ、そこがポイントさ。私たちがここへやってきた目的は、仲間集めだけじゃない。もう一つの大きな目的としてね、ルミエール、太奈都を救いに行く決戦のその日が訪れるまでの許された時間の中で、この雪兎を一人前の戦士として徹底的に修行して仕込んでやっておくれよ」
その想定外すぎる斜め上の提案に、当事者である雪兎とルミエールは「えっ……!」と思わず同時に声を漏らした。
突然の無茶振りに頭が真っ白になり、ただ呆然と固まる雪兎をよそに、ルミエールは心底嫌そうな、美しい顔を険しく歪めて猛反対した。
「園長、それはあまりに無茶というものです。私は反対します! たかだか数か月のやっつけ仕事で、この貧弱な少年を、あの血で血を洗う大戦の戦場を生き抜けるほどの猛者に育てるなんて、物理的に時間が足りなすぎます。それに……私のような者が、見ず知らずの異性の人間と二人きりで密室で生活を共にするなんて、世間体としても……さすがに、嫌ですっ……!」
彼女は、男性アレルギーでもあるのか、想像しただけでも鳥肌が立つと言わばかりの激しい不快感を露わにし、必死の形相で園長にその過酷な任を免除してほしいと懇願した。
だが、園長はそんなルミエールの拒絶の態度微塵も動じず、氷のように冷徹で、かつ慈愛に満ちた真剣な眼差しでこう言い放った。
「ルミエール、あなたが男という生き物を極度に苦手にしているのは重々承知の上だよ。だけどね、今のこの絶望的な状況下で、あなたほどこの役目にふさわしい適任者は他に誰もいないんだ。それにね……この雪兎の魂の奥底に眠る秘めたる力は、覚醒さえさせれば想像を絶するほど強いはずなんだよ」
何か確たる裏付けや確信があってのことか、園長のその言葉には、人の心を圧倒する不思議な重みと強烈な説得力があった。あまりの気迫に、ルミエールは思わず一歩、たじろぐように後ずさった。
自分が足手まといだと言われ、まだ決めかねているルミエールの横顔を見て、雪兎はもうこれ以上迷っている暇などないと自らのなかの退路を断ち、全身全霊の決意を言葉に乗せて訴えかけた。
「ルミエールさん! 俺は……どんなに過酷な地獄が待っていようと、どうしても太奈都を、俺のたった一人の弟を、自分の手で連れ戻したいんです! あいつが悪魔どもの都合のいい殺人兵器のように扱われて、この世界から永遠に失われてしまうなんて、そんな未来は耐えられない……! だから、どんなにきつい修行でも逃げ出さないから、どうか、どうか俺に力を貸してください!」
そう叫ぶと、雪兎はテーブルの席から立ち上がり、床に額がつきそうなほどの勢いで深々と頭を下げて、血を吐くような切実さで懇願した。
ルミエールは、目の前で文字通り命を懸けた、てこでも動かない少年のかじりつくような決意の眼差しをじっと見据えた。その瞳に宿る炎が、ただの我が儘ではなく本物の狂おしいまでの兄弟愛であると悟ったのか、彼女はしばらくの間、息を詰めて重く考え込んだのち、やがてふっと小さくため息をついた。
「……いいでしょう。ただし、私の訓練は容赦しません。どれほど過酷で地獄のような音をあげようとも、途中で怖気づいて泣き言を言おうとも、私が課したメニューは最後まで一歩も引かずに全うしてもらいます。それから、訓練以外の時間、いかなる理由があっても私の私生活の領域には絶対に踏み込まないこと。それが、私がこの依頼を引き受けるための絶対条件です」
その言葉を聞いた瞬間、雪兎の胸に張り詰めていた緊張の糸が緩み、安堵の息が漏れた。彼は再び頭を下げ、「分かりました……! どんな試練でも耐えてみせます。よろしくお願いします!」と、魂の底からの気合を込めて力強く挨拶した。
そのやり取りを温かな眼差しで見守っていた園長も、満足そうに頷きながらルミエールに向き直った。
「ありがとうね、ルミエール。私も、決戦に向けての他の準備を進めながら、たまにこうして顔を出させてもらうよ。どうか、この不器用な雪兎のことをよろしく頼むね」
そう優しく告げると、園長はルミエールの美しい瞳をじっと見つめながら、柔らかく微笑んだ。
「それでは、今日はもうすっかり夜も更けて遅くなりましたし、明日からさっそく、地獄の特訓を始めましょうか」
ルミエールが冷徹にそう宣言すると、その夜は簡単な温かい晩餐を済ませたあと、園長と雪兎はそれぞれ割り当てられた個別の客間へと案内され、山荘の静かな夜が深く更けていった。




