12、少しの日常へ
オーリからの密やかな情報によって、太奈都を奪還するための作戦実行まで、あと数か月という貴重な猶予があることが分かった。張り詰めた緊張感のなか、オーリの要塞のような部屋から去り際、園長は振り返り、オーリに向かって声を飛ばした。
「助かったよ、また向こうの情勢に変化があったら教えておくれ。あとね、いざあの『終焉の境界門』を開けるときの五人には、オーリ、あんたもその頭数に入れておいていいかい?」
その不意を突いた問いかけに、オーリは図星を突かれたように顔を引きつらせてたじろぎながらも、逃げるように不安げに頷いた。そして、「……動きに何か変化があったら、連絡するよ」とだけ、吐き捨てるように言葉を返した。
そうして、一行はオーリの隠れ家を後にし、再びあの保育園バスの待つ場所へと戻る。
車窓から流れる退廃的な街の明かりを眺めながら、助手席の雪兎の脳裏には、数々の疑問と焦燥が渦巻いていた。
『終焉の境界門を開けるには、天使か悪魔の力を有する者が五人必要ということ』――この絶対的な条件について言えば、自分たちだけでどうにかできるものではなく、実質的に園長のツテや力に頼るしかなさそうだった。そして、その必要な五人のなかにあのオーリの名前が含まれていたということは、つまり、あの強欲な情報屋もまた、ただの人間ではなく天使か悪魔の血を引く存在だということになる。ただ、あんな男が素直に自分たちのために命を張って来てくれるのかは非常に不安な回答だったし、何より心配が尽きない……。
奪還作戦までは数か月の猶予があるとはいえ、これから突入するのは天使と悪魔が全戦力で殺し合う大戦の真っただ中だ。そんな地獄のような戦火に身を投じるなら、何も持たない素人のままでは一瞬で命を落としてしまうだろう。何か身を守るための防衛策や、戦うための力を身につけなければ、太奈都を連れ戻すどころの話ではない。これもまた、あとで園長にしっかりと相談してみよう。
それにしても、あのオーリという男、見た目の印象からして四十代から五十代ほどの中年に見えたが、あろうことか自分たちの保護者である園長を「クソババア」と呼んで憚らなかった。自分はすっかり、園長の実年齢は還暦前後――つまり六十歳くらいなのだろうと勝手に思い込んでいたが、一体園長という人物は何歳なのだろうか……。知れば知るほど、彼女の存在そのものが底知れぬ謎のベールに包まれているように感じられた。
そんな荒唐無稽な思考を巡らせているうちにバスは目的地へと到着し、一行は再び乗り込んで帰路の長い旅路へと就いた。
その道中、前を凝視しながらハンドルを握る園長から、静かに、しかし決定的な告げ知らせが発せられた。
「ここから先は、私たちにとっても引き返せないほど危険な領域になる。だから優妃は、ここまでだよ。おうちまで責任を持って送っていくからね、雪兎、あなたはもう実家が安全な状態じゃないだろうから、一旦ウチの施設へ戻っておいで。ここから先は、私たちが踏み込むのは一般の人間が耐えられる世界じゃないからね」
その非情な現実を突きつけるような言葉に、優妃はいつものように反発して食い下がるものだと雪兎は身構えた。だが、意外にも優妃は音を立てることもなく、深くうつむいたまま、極めて静かに、そして異様なほど冷静に返答した。
「はい……ここから先は、私が一緒にいてもかえって足手まといになってしまいかねませんし、邪魔になってしまうだけですので……。ただ、私から最後にお願いがあるんです。今日と明日、その一日だけ……雪兎と一緒にいる時間をいただけないでしょうか」
俯いたまま、震える声を絞り出して静かに懇願する優妃。その切実な様子を、園長はバックミラー越しに、すべてを見透かすような慈愛に満ちた穏やかな面持ちで見つめ、小さく頷いてから「雪兎も、それでいいかい?」と穏やかに問いかけた。
雪兎は、優妃のそのただならぬ頑ななまでの決意と、内に秘めた強い覚悟を感じ取り、「はい、お願いします」と園長に静かに頷き返した。こうして、一行は雪兎と優妃が生まれ育った、あの慣れ親しんだ街へと再び向かうことになった。
街へと着き、優妃の家の近くでバスから降ろしてもらう二人。園長は発車する間際、雪兎の顔を見据えて「明日、駅まで迎えに行くからね。着いたら必ず電話しなさい」と告げた。バスがゆっくりと動き出そうとしたその瞬間、優妃は「……今まで、本当にありがとうございました」と、深く頭を下げて園長に声をかけた。園長は少しだけ寂しそうな、いや、優妃の胸のなかの張り裂けそうな心情を痛いほど理解できたからこその深い慈しみを込めて、ふっと柔らかく微笑みながら、大きく深く頷いてみせた。
そうして、園長たちの乗った保育園バスの後ろ姿が夜の街並みのなかに完全に溶け込み、見えなくなっていく。
優妃はふっと息を吐き出すと、「それじゃあ、家に入ろっか」と言って雪兎の手をそっと自分の手で包み込むように掴み、そのまま実家の玄関へと「ただいまー」と声を弾ませて入っていった。
家に入ると、優妃の両親は思いがけない雪兎の姿に少しだけ目を丸くして驚いていたが、優妃が「今日だけ、ここに泊まっていくからね」と告げると、意外にもすんなりと受け入れてくれた。前日も「雪兎のところに泊まる」と嘘をついて飛び出していた手前、今こうして雪兎と一緒に帰ってきたことで、両親は安心感を抱いたようだった。
そんな温かい優妃とその両親の和やかな背中を見つめていたとき、雪兎の胸のなかに、不意にあの夜の記憶がフラッシュバックする。傷つき倒れた両親の姿と、異形へと変貌して闇へ消えた太奈都の背中。今にもこぼれ落ちそうになる熱い涙を、雪兎は懸命に奥歯を噛み締めて気丈に振り払い、家族のような温もりに満ちた晩ご飯の食卓を囲んだ。
食後に温かいお風呂へと浸かり、少しだけリビングで他愛のない世間話を交わしたあと、雪兎は客間へと通された。パチリと部屋の明かりを消し、冷えた布団にもぐり込む。今日一日で目まぐるしく回転したあまりに濃密な現実を頭のなかで一つずつ思い返し、雪兎はふーーっと深いため息を天井に向けて吐き出した。
――その時、静まり返った暗闇のなかで、客間の木の扉が「トントン」と軽くノックされた。
咄嗟に「はい」と声を返すと、ガチャリと音を立てて開いた扉の隙間から、パジャマ姿の優妃がひょっこりと顔を覗かせた。
「あのさ、少しだけ……お話してもいいかな」
彼女のその言葉に、雪兎は静かに頷き返す。二人は部屋のなかに並んで座り、最初はどこかぎこちない、たわいもない日常の会話を細々と続けた。
やがて、優妃はふっと小さく息をつくと、「ねえ、もっと近くで、寝っ転がりながら話そうよ」と提案し、二人はそのまま布団のなかに並んで横になった。開け放たれた窓の隙間から差し込む青白い夜の月明かりが、優妃の整った美しい顔立ちを妖しく、そしてより一層神秘的に際立たせている。
少しの間、言葉もなく見つめ合ったあと、優妃は微かに震える唇を開き、沈黙の夜気を破って本音をこぼした。
「昨日と今日でね、色んな本当の話を聞いて、雪兎が背負ってるものが少しだけ分かって……本当によかった。ただ、今日の話を聞いて痛いほど分かったの。ここから先の危険な世界には、私は絶対についていけないってこと。だけど……雪兎がこれから一人でそんな恐ろしい場所に飛び込んでいくのを想像すると、心配で、胸が張り裂けそうになるの……何も力になれない自分が、本当に、悔しくて情けなくて……」
こらえきれなくなったようにポロポロと涙を大粒のまま流しながら、溢れる思いを絞り出すように語る優妃。
その痛切な姿を目の当たりにした雪兎は、言葉を失い、ただただ不器用に優妃の体を優しく引き寄せ、その震える小さな背中を強く、壊れてしまわないように抱きしめた。
何か気の利いた言葉をかけることもできず、ただ、ただ優しく、そして強く――その温もりを肌で確かめるように、幾重にも抱きしめ続けた。
やがて、部屋の隙間から差し込む太陽の柔らかな光のまぶしさに、雪兎ははっと目を覚ました。いつの間にか、昨夜はそのまま優妃を抱いたまま眠り込んでしまっていたらしい。
あわてて起き上がると、腕の中にいたはずの優妃の姿はすでにそこにはなかった。代わりに、家の中の廊下から、優妃が両親と楽しげに話す笑い声が聞こえてくる。どうやら自分よりも早く起きて準備を済ませていたようだ。
「おはようございます」と少し気恥ずかしそうに茶の間へと顔を出すと、両親はいつもと変わらない穏やかな笑みで「おはよう、よく眠れたかい?」と声をかけてくれ、優妃もまた「おはよう、顔でも洗ってきたら?」と、昨夜の涙に濡れていた弱々しい面影など微塵も感じさせない、晴れやかな笑顔を向けてくれた。
美味しい朝食をしっかりと胃に収め、お茶を飲んで一息ついたとき、優妃から「ねえ、今日は一緒に街へ出かけようよ」と可愛らしい提案があり、二人は久しぶりの外出をすることになった。
家を出る際、優妃の両親から「気をつけて行ってきなさい、またいつでも遊びにおいでね」と温かい声をかけられ、雪兎は深々と頭を下げて、二人並んで家を後にした。
まず二人が向かったのは、街の総合病院だった。雪兎の両親が眠る病室へと足を運ぶと、そこにはあの夜から一歩も動かないまま、規則正しい寝息だけを立てて眠り続ける父と母の姿があった。
いつ目を覚ますとも知れない二人の手を取り、雪兎は固く目を閉じ、心のなかで何かを強く祈るように、長い間じっと動かずに立ち尽くした。
そうしてしばらくの静寂の時間が過ぎたあと、「……行こう」と雪兎は乾いた声を絞り出し、名残惜しそうに病室のドアをそっと閉めて後にした。
病院をあとにした二人は、そのまま賑やかな街の中心部へと繰り出した。
人混みのなかを並んで歩き、小さなカフェで軽食をつまみ、ゲームセンターのプリクラの機械に飛び込んでバカみたいにはしゃぎながら写真を撮り合う。普通の恋人同士であればどこにでもあるような、平穏で色鮮やかな日常のデートを、二人はただ夢中で満喫した。この穏やかな日常が明日には音を立てて消え去ってしまうかもしれないという、拭い去ることのできない恐怖と焦燥感を、お互いに心の奥底へと必死に押し隠しながら、一秒一秒を確かめ合うように過ごしていく。
賑やかな大通りを並んで散策している途中、雪兎はふと上着の袖を後ろからクッと引っ張られた。
咄嗟に振り返ると、そこには通行人の流れから少し外れた一角で、薄汚れた水晶玉を目の前に置き、怪しげな古びたローブをすっぽりと被った老人の占い師が座り込んでいた。占い師は、皺枯れた顔を上げ、じっと深く雪兎の目を凝視したあと、しわがれた不気味な声で言い放った。
「……お主、これから逃れられない大きな選択を迫られる時が来る。この世界の滅亡と存続を願うか、あるいはその手の中にある愛すべきたった一つの命を救うか……まったく異なる二つの道のどちらかを選ぶ選択に、お主は必ず直面するだろう……」
その不吉すぎる予言を言い放つと、占い師はガタガタと全身を激しく震わせながら、さっきまで掴んでいた雪兎の袖をそっと、まるで恐ろしいものに触れるように放した。
その言葉の重みに気圧されながらも、雪兎は微塵も怯むことなく、まっすぐな瞳で占い師を見据えてハッキリと言い切った。
「……もしそんな残酷な選択を迫られる日が来たらさ、俺は、どちらか片方なんて選ばない。どちらも、この手で絶対に救ってみせるさ」
その予想外すぎる、あまりにまっすぐで傲慢ですらある若者の力強い返答を聞いた瞬間、老人である占い師は「おお……」と息を呑み、目頭にうっすらと涙を浮かべたまま、言葉を失って深く沈黙した。
そうして、太陽が沈みかけ、空が紫色の夕闇に染まり始めるころ。
雪兎はふっと息をつき、「そろそろ、駅へ向かうよ」と小さな声で告げた。優妃は悲しみを飲み込むように、小さく、しかししっかりと頷いた。
駅へと向かうまでの数百メートルの並木道、二人は言葉を発することもなく、ただ痛いほどにお互いの手のひらを強く、指と指を絡ませるように握りしめ合っていた。
駅の改札を抜け、プラットホームに立ち、電車が来るまでの残りわずかな時間。そこには、言葉にすれば壊れてしまいそうなほどの静寂が満ちていた。お互いの体温と、その温もりをこれからの孤独な日々のために手のなかに記憶しておこうと、ただ強く、強く手を握り締める。
やがて、遠くからゴウンゴウンと線路を揺らす重い音が響き、ホームに雪兎の乗る最終の電車が近づいてくることを知らせるアナウンスが響き渡った。
電車の黄色い安全線の内側に立ち、冷たい風が吹き抜けるなか、優妃はついにこらえきれなくなった感情を絞り出すように言葉を発した。
「雪兎……私はあなたの戦う世界にはついていけないから、ここで、ずっとあなたの無事と帰りを祈って、待っているよ。だから……絶対に、太奈都を無事に連れて、一緒にこの街へ帰ってきて……!」
あふれそうになる涙を必死に天井を仰いでこらえ、心配させまいと気丈に、震える笑顔を作ろうとする優妃。その力強くも、あまりに愛おしい健気な姿に、雪兎のなかの決意は揺るぎない鋼の意志へと変わった。
「ああ、約束する。必ず、必ず太奈都を連れ戻して、一緒にここに帰ってくるよ」
そう言うと、雪兎はもう我慢しきれなくなり、優妃の細い体を力強く引き寄せ、自分の胸元へと深く抱きしめ込んだ。
電車のブレーキがキーッと甲高い金属音を立てて、目の前にピタリと停止する。その扉がプシューと重苦しい音を立てて開く瞬間、雪兎は優妃をそっと離して電車に乗り込もうとした。しかし、その刹那、優妃は雪兎の上着の裾をグッと力強く掴み、無理やり自分の方へと振り返らせた。
不意を突かれて振り返った雪兎の視界のなかに、真っ赤に染まった優妃の美しい頬が飛び込んでくる。次の瞬間、優妃の柔らかく、どこか切なさを帯びた美しい唇が、雪兎の唇へとそっと、しかし確かな熱を持って重なり合った。
ほんの一瞬の、しかし永遠にも感じられる口づけを交わしたあと、優妃は真っ赤に染まった頬を恥じらいに染めながら、泣き出しそうな笑顔で力強く告げた。
「――行ってらっしゃい!」
その背中を押すような、あまりに力強い送り出しの言葉。雪兎もまた、あふれ出そうになる涙を必死の形相でこらえ上げ、震える声を精一杯張り上げて叫んだ。
「――行ってきます!」
そうして、雪兎は自分の足で電車のなかに飛び乗り、扉が音を立てて閉まった。電車はゆっくりと加速し、窓の外で小さくなっていく優妃の姿を置き去りにしながら、園長の待つあの山林の街へと走り出す。
しばらく電車を乗り継ぐうちに、車窓の景色からネオンの光や建物の影は完全に消え去り、やがて鬱蒼とした深い山林や暗い海原の景色へと移り変わっていく。数時間後、かつて降り立ったあの寂れた孤児施設の最寄り駅に到着した。
電車の扉を出ると、駅前のロータリーには、見慣れたあの保育園バスが静かにエンジンをかけて佇んでいた。運転席のなかにちょこんと座る園長の姿を認め、雪兎は重い足を動かして静かにバスへと乗り込む。
どこか物寂しく、やり場のない虚しさを漂わせる雪兎の痛々しい空気を背景事情からすべて察してか、園長は詮索するような言葉は一切かけず、ただバックミラー越しに優しい目を向けながら、静かにこう呟いた。
「……さあ、帰るかい。今日はもう遅いから、何も考えずにゆっくり体を休めなさい」
その言葉に、雪兎は大きく息を吐き出す。胸の奥には今も優妃の温もりと別れの寂しさが痛いほど残っていたが、彼女が気高く、気丈に自分を送り出してくれたその強い心をも力に変えて、雪兎は自らに課した任務を完遂することを、静かに、しかし強く心に誓ったのだった。




