8.怖いんだ
リュカは机の上の本を見た。
「……今から勉強するの?」
「いいや。その前に朝食だ」
シルヴェインは寝台へ服を置いた。
「これに着替えろ」
リュカは服へ目を向ける。
それは、とても良質な生地で作られた服だという事が、見ただけでわかった。
「……これ、僕の?」
「ああ」
ーー『だったら先に言っておく。風呂も、薬も、食事も、寝床も、お前から金を取る気はない。いいな?』
リュカは昨日のシルヴェインとのやりとりを思い出した。
「……ありがとう」
リュカは、小さな声で俯き加減にお礼を伝える。
「礼を言うほどのものではない」
それだけ返し、シルヴェインは扉へ向かう。
今朝の彼は、銀糸のヴェールをつけていなかった。
朝の光にさらされた顔は、昨夜、奴隷市場で目にした時よりもなお異質に見えた。長い銀髪の間にある白い肌も、紫水晶を溶かしたような瞳も、人の美しさを測る尺度からわずかに外れている。
だが、リュカから見ればシルヴェインはシルヴェインだった。
「ねえ」
シルヴェインが扉のところで振り返る。
「なんだ」
「今日は、顔を隠さないの?」
「ああ」
「どうして?」
「ここには、私とお前しかいないからだ」
まるで、それ以上に理由が必要なのかと言わんばかりだった。
「……僕は平気だから?」
「そういうことだ」
「じゃあ、僕の前ではずっとそのまま?」
シルヴェインは怪訝そうに眉を上げた。
「隠してほしいのか?」
「ううん」
「そうか」
シルヴェインは簡単に言って、今度こそ部屋を出ていった。
***
着替えて部屋を出ると、シルヴェインの姿はもう廊下の先にあった。
「待ってーー!」
リュカが駆ける。
けれど、すぐに足が止まった。
昨夜も広いと思った屋敷は、朝になってみると、さらに大きく感じられた。
天井の高い廊下。
いくつも並ぶ扉。
途中で枝分かれする回廊。
振り返れば、自分の部屋がどこだったのか、もう分からない。
どの角を曲がったのか。
階段はまだ下りていない。
たしか、最初を右。
それから――。
リュカは歩きながら、無意識に、扉の数や窓の数を数え始めた。
ーー扉が六つ。
ーー窓が三つ。
ーー二つめの扉の前に青い花瓶。
忘れないように。
一人でも大丈夫なように。
けれど、さらに先へ進むと、同じような廊下がもう一本現れた。
ーーまた扉。
ーーまた窓。
数えるのに夢中になりすぎて、シルヴェインとの距離が少し開く。
リュカは慌てて、すぐに歩幅を速めた。
「どうした?」
いつの間にか、シルヴェインが振り返っている。
「……何でもない!」
反射的に答えた。
口にしてから、自分でも少しだけ安心する。
何でもないーーそう言っておけば、困らせなくて済むし、面倒だと思われない。
大金を出して買ってもらって、自分の部屋までもらったのだからーー家が広すぎて怖いことくらい我慢しなければ。
リュカはそう言い聞かせて、また歩き出した。
けれど、今度はシルヴェインのすぐ後ろから離れなかった。
扉を見る。
窓を見る。
自分の部屋へ戻るための目印を、必死に頭へ刻み込む。
そのうち、右手が無意識に壁へ触れていた。
「リュカ」
前を歩いていたシルヴェインが、不意に足を止めた。
リュカは危うく背中へぶつかりそうになる。
「何?」
「さっきから何を数えているんだ?」
「……何も」
「嘘だな」
即座に返されて、リュカは黙る。
シルヴェインの紫の瞳が、静かにこちらを見ている。
「扉か?それとも、窓か?」
「……」
少し恥ずかしくなって、リュカは俯いた。
「迷いたくないから……」
「迷うのが怖いのか」
「……」
本当に面倒な子どもだと思われそうで、リュカは唇を噛んだ。
「リュカ。言いたくないなら、無理には聞かない」
シルヴェインの声が少し低くなった。
「……この屋敷、広すぎて……怖いんだ……」
リュカは慌てて続けた。
「ーー嫌っていうわけじゃないよ!でも、知らない部屋がいっぱいあるし、廊下もどこまで続いてるか分からないし……部屋を出たらもう戻れなくなる気がして。でも、その……僕が慣れればいいだけだから!」
言っているうちに、少し恥ずかしくなった。
十歳にもなって、家が広いから怖い、なんて。
けれどシルヴェインは笑わなかった。
「分かった」
それだけ言って、シルヴェインが杖を持ち上げる。
「……え?」
そして、シルヴェインが杖で床を軽く叩いた。




