7.妖精たちのロンド
眠っているリュカの髪の上へ、小さな妖精が一人、ふわりと降り立った。
花粉ほど軽い足だったが、それでもリュカは、少しだけ身じろぎした。
妖精は嬉しそうに笑う。
『ねえ、起きないで』
『起こしちゃダメよ』
『夢の底で、私たちと遊びましょう』
別の妖精が、枕元のパンを覗き込んだ。
『この仔、パンを宝物みたいに持ってる』
『可愛いわ』
『かわいそうね』
妖精たちは、口々に囁く。
妖精にとって、かわいそうという言葉は、必ずしも哀れみではない。
そこに善意があるとは限らないし、悪意があるとも限らない。
『ちょうだい』
一人が言った。
『夢を、ひとつだけちょうだい』
『母親の夢がいいわ』
『だめよ。母親の夢は苦いもの』
『じゃあ、小さい頃の夢ね』
『それは甘いわ』
『きっと甘いわ』
妖精の細い指が、リュカの額へ伸びる。
その指先が触れる寸前。
部屋の空気が変わった。
暖炉の火が、青から銀へ変わる。
妖精たちは一斉に凍りついた。
「触るな」
暖炉の火の中から低い声がした。
銀色の炎の奥に、シルヴェインの紫の瞳が浮かんでいる。
部屋を出ていったはずの魔法使いは、まだこの部屋を見守っていたのだ。
妖精たちが慌てて散る。
『見てただけよ』
『そうよ、見てただけ』
『触ってないわ』
『そうよ、まだ触っていないわ』
「私は寛大ではないぞ」
妖精たちは不満そうに頬を膨らませた。
『独り占めね』
『シルヴェインの独り占めだわ』
『弟子ってそういうもの?』
『知らないわ』
シルヴェインは答えなかった。
***
リュカは、何かに鼻先をつつかれて目を覚ました。
「……ん」
まだ眠りの残る声で呟き、手を伸ばす。
指先に、何か小さくて柔らかいものが触れた。
『きゃっ』
小さな声に、リュカは勢いよく目を開けた。
目の前に、知らない顔があった。
とても小さな顔だった。
掌ほどの大きさしかない少女が、リュカの金髪に両手でしがみついている。
金色の髪の先に、掌に乗るほどしかない、小さな女の子がぶら下がっていた。
薄桃色の花びらを重ねた服を纏い、背中には蝶によく似た透明な羽が生えている。
『起きた?』
リュカと目が合い、妖精はリュカの髪を握ったまま言った。
『起きたわ』
「……」
『起きたね』
『朝よ、朝よ』
『お寝坊さんね』
部屋のあちこちから声がした。
昨夜までは誰もいなかったはずの場所から、次々と妖精たちが飛び出してくる。
リュカは勢いよく身体を起こした。
掛布が肩から滑り落ちる。
「……あれ?」
寝台の上にいた。
昨夜は、壁へ背中をつけて床で眠ったはずだった。
それなのに今は、寝台の真ん中にいる。
眠っている間に、誰かに触れられたような気がするけれどーー、その記憶はない。
ーー夢を見た。
母の夢だった。
燃える家でも、泣いている母でもない。
ずっと昔の夢。
春の庭ーー母が椅子に腰掛け、リュカの髪を梳いていた。
父は少し離れたところで、壊れた椅子を直していた。
何でもない一日。
二度と戻ってこない日。
けれど、不思議と苦しくなかった。
夢の最後で、母が何か言っていた気がしたがーー何だっただろう。
『可愛い仔』
一人が言った。
『ほんとう。近くで見ると、もっと可愛い』
『髪が月の蜜みたい』
先ほど髪を引っ張っていた妖精が、今度は至近距離からリュカの顔を覗き込んでいた。
『きれいな青』
別の妖精も寄ってくる。
『空より青いわ』
『海より深いね』
「君たち……、いつからいたの?」
窓辺の妖精が笑う。
『ずっと』
『ずっとよ』
『昨日から』
『あなたが来るより前から』
「……ここは、シルヴェインの家じゃないの?」
妖精たちは顔を見合わせた。
そして一斉に笑った。
***
「そこまでにしろ」
扉の方から声がした。
妖精たちが一斉に振り返ると、シルヴェインが立っていた。
シルヴェインは、何冊かの本を抱えている。
「朝から人の弟子を囲んで何をしているんだ」
『遊んでいただけよ』
『そうよ』
『お喋りしてたの』
シルヴェインが杖を振る。
風もないのに、部屋の窓が一斉に開いた。
「出ていけ」
『いやよ』
『寒いもの』
『私たちも朝ごはんが食べたいわ』
「三つ数える」
妖精たちの顔色が変わった。
『けち』
『意地悪』
『怒ってる』
『怒ってるわ』
『横暴だわ』
『暴君だわ』
「一」
妖精たちは悲鳴と笑い声を残して窓の外へ飛び出した。
『またね』
『また遊びましょう』
『愛しい仔』
最後の言葉だけが、妙に耳に残った。
妖精たちは窓硝子をすり抜け、朝靄の中へ消えた。
シルヴェインがため息をつく。
シルヴェインは持っていた本を机へ置いた。
どれも古い本だった。
表紙には、見知らぬ文字や奇妙な紋様が刻まれている。
「魔法使いが最初に覚えるべきことは、呪文でも、杖の振り方でもない」
「じゃあ何?」
「禁忌ーー。つまり、してはいけないことだ」
リュカは少し拍子抜けした。
「魔法って、何でもできるんじゃないの?」
シルヴェインが紫の瞳を細める。
「大いなる力には、何にでも対価が必要だからな」
その言葉には、妙な重さがあった。




