6.夢の守り人
シルヴェインが部屋を出た後も、しばらくの間、リュカはその場を動けなかった。
シルヴェインが再び戻ってきて、『――やはりお前はいらない』そう言われるのではないかと思った。
けれど、しばらくしても、シルヴェインは戻っては来なかった。
リュカはようやく寝台へ近づき、指先でそっと触れる。
信じられないほど、柔らかかった。
手を押しつけると、ゆっくり沈み、それから元の形へ戻る。
奴隷市場では、石床に藁を敷いただけの寒い場所で眠った。
その前に閉じ込められていた荷馬車でも、床は硬い板だった。
その前は――リュカは考えるのをやめた。
壁際の棚には、本がぎっしりと詰まっていた。
背表紙には見たことのない文字が並んでいる。
読めるものも、少しだけあった。
《魔法に精通する植物図鑑》
《精霊契約の禁忌》
《魔力の引き出し方》
リュカはしばらく寝台を見つめ、結局、壁際の床へ腰を下ろした。
そこなら扉も窓も見えるし、暖炉にも近い。
背中をピッタリと隙間なく壁につけると、少しだけ安心した。
袖口が、少し膨らんでいるのを見て、リュカはパンを隠したことを思い出して手を入れる。
取り出したパンは、食卓で握ったせいで、少し潰れていた。
リュカはそれを大事そうに両手で包んだ。
明日の朝、何も出てこなかったらこれを食べればいいし、万が一追い出されたら、歩きながら食べればいい。
ーーそう思っていた。
疲れ果ててそっと目を閉じると、すぐに母の顔が浮かんだ。
最後に見た時の顔ではないーーもっと昔。
リュカがまだ小さくて、美しいという言葉が何を意味するのか知らなかった頃ーー母はいつもリュカの髪を梳いてくれた。そして、リュカの金色の髪を指へ絡めながら、何度も言った。
『――私のリュカ。あなたは本当に美しいわ』
あの頃は、その言葉が好きだった。
母に褒められることが嬉しかった。
その言葉が、いずれ自分を蝕む呪いになるとも知らずに。
リュカは再び重たい瞼を開き、眠ってはいけないと思った。
ただ少しだけーーほんの少しだけ目を閉じようと思った。
けれど、身体はもう限界だった。
暖炉の熱と、満たされた腹と、誰にも殴られない静かな夜。
リュカの意識は、ゆっくりと沈んでいった。
***
シルヴェインは書斎の椅子へ深く腰掛け、古い魔法書を読んでいた。
シルヴェインの傍には妖精たちが飛び回っている。
彼女たちは、純粋で無垢で、時に残酷な存在。
シルヴェインが招いたわけではなく、何度追い出してもいつの間にか戻ってくるので、シルヴェインも諦めているだけだ。
妖精たちは、みな、好き勝手に光を散らしながら、ひそひそと囁いている。
『可愛いい仔。あの子をちょうだい』
『可愛い仔。私たちの可愛い仔』
「黙れ」
シルヴェインは妖精たちを一瞥する。
『シルヴェインはさっきも私を邪険にしたのよ』
『そうよ。ひどいわ』
『ひどい魔法使いだわ』
同じ言葉が、歌のように繰り返される。
『ねえ、シルヴェイン。あの子が苦しそう』
『そうよ、あの子が可哀想』
『かわいそうね』
『かわいそうだわ』
シルヴェインはしばらく黙っていたが、やがて、諦めたように本を閉じた。
妖精たちは嬉しそうに宙へ舞い上がった。
『行くの?』
『行くのね』
『優しいのね、シルヴェイン』
「おい。頼むから、少し黙ってくれないか」
『照れてる』
『シルヴェインが照れてるわ』
妖精たちは笑いながら散っていった。
***
月が森の真上へ昇る頃、シルヴェインは再びリュカの部屋の前で、シルヴェインは足を止めた。
シルヴェインはしばらく扉を見つめていた。
扉を開けると、部屋は静かだった。
暖炉の火だけが、低く燃えている。
部屋に入ってすぐに、壁際で小さく丸まっているリュカを見つけた。
毛布すらかけず、石壁へ背を預けて眠っている。
「……なぜ床で寝る」
紫の瞳が、わずかに細くなる。
シルヴェインはゆっくりと近づいた。
ーーその時。
「……母さん」
リュカが小さく呟いた。
眉間に皺が寄っている。
呼吸が浅い。
眠る少年の頬を、一筋だけ涙が伝った。
シルヴェインはリュカの身体をそっと抱き上げた。
あまりに軽かった。
人間の子どもがどの程度の重さであるべきなのか、シルヴェインは知らないが、これは軽すぎるのだろうと思った。
寝台へ横たえる。
掛布を胸元まで掛ける。
「……手のかかる弟子だ」
あの時ーー奴隷市場で、初めてリュカと目が合った瞬間から分かっていた。
あの青い瞳は、特別で危険なものだと。
シルヴェインがリュカの頬にそっと触れ、魔法を唱える。
《悪夢は草木へ。涙は朝露へ。夢の主に、咎はなし》
シルヴェインがそっと頬から手を離すと、リュカは安らかな顔になった。
「いい夢を」
シルヴェインはリュカの寝顔を見つめ、部屋を後にした。




