5.魔法使いの屋敷
屋敷の中は、外から見たよりも広かった。
天井は高く、廊下はどこまでも奥へ続いている。
壁には見たこともない花や獣を描いた絵が掛けられていた。
リュカがきょろきょろと辺りを見回していると、先を歩いていたシルヴェインが足を止めた。
「まずは、風呂に入れ」
リュカは固まった。
「……お風呂?」
「知らないのか?」
「知ってる!」
少しだけ、むっとした声が出た。
シルヴェインの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったようにも見えたが、リュカには自信がなかった。
「なら話は早い。ついてこい」
シルヴェインの後に続き、長い廊下の奥にある扉を開くと、真っ白な浴室があらわれた。
床には細かな銀色の紋様が幾重にも刻まれ、壁際には薬草や香油の入った小瓶が並んでいる。
中央には大きな浴槽があった。
シルヴェインが杖を向けると、石造りの獅子の口から、湯気を立てた湯が流れ始めた。
リュカは目を丸くする。
「……魔法?」
「この程度は魔法とも呼べない」
「すごい……」
ぽつりと漏れた言葉に、シルヴェインは興味なさそうに杖を下ろした。
「身体を洗って、髪も洗え。急がなくていいから、身体の芯まで温まってから出てこい」
そこまで言い、扉を閉めようとして。
シルヴェインは止まった。
視線が、リュカの首元へ向けられている。
奴隷市場で嵌められていた鉄輪の跡。
擦り切れた皮膚には赤黒い傷が残っていた。
手首や足首にも傷があり、痛々しい姿だった。
「傷が染みるかもしれないな」
「平気だよ」
即座に答えた。
シルヴェインの目が細くなる。
リュカは袖を引いて、咄嗟に手首を隠す。
その仕草を見て、シルヴェインは何も言わなかった。
ただ、浴室の棚にあった小瓶を一本取る。
「湯から上がったら、それを傷に塗れ。傷を治してやりたいところだが、治癒魔法というのは万能ではなくてな」
差し出される。
リュカは受け取らなかった。
正確には、受け取れなかった。
小瓶とシルヴェインの顔を交互に見る。
「僕……お金、ない」
シルヴェインは、小さく息を吐いた。
「私がお前から、一体何を取るというんだか。この屋敷にあるものを使うたび、いちいち代金を払うつもりか?」
「……だって」
「だったら先に言っておく。風呂も、薬も、食事も、寝床も、お前から金を取る気はない。いいな?」
そういうと、シルヴェインは浴室を出て行った。
「……」
誰かから何かを貰えば、いつか必ず代わりのものを求められる。
食べ物なら労働を。
寝床なら服従を。
優しさなら、それ以上の何かを。
全ての物事には対価が必要なのだ。
だからこそ、何も求められないことのほうが、リュカには怖かった。
***
風呂から上がると、先ほどまで着ていたぼろぼろの服が消えていた。
代わりに、籠の中へ真新しい服が畳まれている。
言われた通り傷へ薬を塗り、服を着てみると、驚くほどリュカの身体にぴったりだった。
浴室を出ると、廊下の壁に背を預けていたシルヴェインが顔を上げた。
「……なぜ濡れたまま出てきたんだ」
「え?」
「髪だ」
言われて、リュカは自分の頭に触れた。
洗ったばかりの金髪から、まだぽたぽたと雫が落ちている。肩に掛けられた布で何度か拭いたのだが、長く伸びた髪はなかなか乾かなかった。
「ちゃんと拭いたよ」
「風邪を引くぞ」
「引かないよ」
「なぜわかる」
「今までだって平気だったから」
何気なく言ったつもりだった。
冬でも、雨の日でも、濡れた身体のまま眠ったことなど、一度や二度ではない。
風邪を引いたところで、治るまで苦しいことを我慢すればいいだけだから。
シルヴェインは小さく息を吐くと、杖を持ち上げた。
リュカが身構える。
「……なにするの?」
「乾かすだけだ」
杖の先が、淡く光った。
次の瞬間ーーふわりと、春先の日溜まりのような、柔らかな風がリュカの頬を撫でた。
「わぁ……」
風は頭の周りをくるくると巡り、濡れた金髪を一房ずつ持ち上げていく。
熱くはなく、冷たくもない。
森の奥を抜けてきた風に、ほんの少しだけ陽射しを混ぜたような、不思議な温かさだった。
細かな水滴が髪の先から浮かび上がる。
雫は床へ落ちることなく、小さな銀の粒へ姿を変えると、きらきらと光りながら宙へ昇っていった。
その光景は、まるで、星が逆さまに降っているようだった。
リュカは思わず手を伸ばした。
けれど銀の粒は指先へ触れる直前に、淡い光となって消えてしまう。
「……これも魔法なの?」
「一応はな」
「すごいね」
「お前はそれしか言わないな」
シルヴェインは一瞬だけ目を細めた。
「……僕、この魔法、好き」
「そうか。行くぞ。食事が冷める」
シルヴェインはそんなリュカを一瞥すると、そのまま歩き出す。
「……ありがとう」
リュカは慌ててその背中を追いかけた。
***
広間の中央には、長い食卓があった。
シルヴェインが杖で床を一度叩く。
すると、誰もいない台所から食器の触れ合う音が響いた。
鍋が浮かんでこちらに向かってくる。
リュカの前に深い皿が置かれ、鍋がひとりでに傾く。
深い皿へ、黄金色のスープが注がれる。
焼きたてのパンと、蜂蜜をかけた果物が並んだ。
食べ物の匂いを嗅いだ瞬間、リュカの腹が鳴った。
「お前のために用意したんだ。好きなだけ食べろ」
リュカは、恐る恐るパンへ手を伸ばした。
一口、かじると、まだ温かい。
柔らかな生地から、麦とバターの甘い香りが広がった。
二口目からは、もう止められなかった。
ほとんど噛まずに飲み込み、スープを流し込む。
誰かに奪われる前に食べなければならない。
身体がそう覚えていた。
「誰もとったりしないから、ゆっくり食べろ」
シルヴェインが言った。
リュカの手が止まる。
「……あ……ごめんなさい」
「謝れとは言っていない。何も悪いことをしていないのに簡単に謝るな」
「……」
「なくなれば、また作るから焦るな」
シルヴェインは自分の前に置かれた飲み物に口をつけた。
料理には一度も手を伸ばさない。
リュカはしばらく彼を見てから、今度はゆっくりとパンを口へ運んだ。
それでも、食事の終わりに小さなパンを一つだけ袖の中へ隠した。
明日の朝、食べ物が出てくるとは限らない。
今夜のうちに追い出されるかもしれない。
リュカは不安だった。
シルヴェインは、リュカの行動に気づいていたようだったが、何も言わなかった。
食事のあと、シルヴェインはリュカを二階の部屋へ案内した。
扉を開けると、部屋の中は暗かったが、シルヴェインが指を鳴らすと、壁際の蝋燭へ次々と火が灯った。
大きな寝台。
火の入った暖炉。
本の詰まった棚。
窓辺には、小さな机と椅子がある。
「ここを使え」
「……ここ、僕の部屋?」
「ああ。気に入らなければ、別の部屋を用意する」
リュカは首を大きく横に振った。
嫌なわけがない。
ただ、自分のものだと言われても、どうすればよいのか分からなかったのだ。
自分だけの場所など、これまで持ったことがなかったから。
寝台の上には、清潔な服が置かれていた。
「今夜は何も考えずに、ゆっくり休め」
扉が閉まる。
廊下を遠ざかっていく足音は、やがて聞こえなくなった。




