4.宵境の森
雪に埋もれた森。
黒々とした木々の間に、青い月明かりが差し込んでいる。
風もないのに枝が揺れ、どこか遠くで鈴に似た音が鳴っていた。
シルヴェインは、リュカの手を引いていた。
一歩、銀の輪を越える。
代わりに、冷たい夜気が肺へ流れ込む。
あまりの寒さに、リュカは小さく息を呑んだ。
足元には新雪が積もっていた。
靴も履いていない足が、くるぶしまで雪へ沈む。
痛みより先に、白さが目に入った。
まだ誰にも踏まれていない、真新しい雪だった。
王都の泥と汚物にまみれた雪ではない。
空から落ちたまま、何一つ汚されていない白。
リュカは、こんなに綺麗な雪がこの世にあることを知らなかった。
リュカの足にあった足枷はなくなったが、それでも長いあいだ鎖に繋がれていた足は、歩き方を忘れてしまったかのように重い。
歩くたびに、足の裏から自分の身体が少しずつ遠ざかっていくようだった。
シルヴェインは、一度も振り返らなかった。
弟子にすると言ったくせに、歩幅を緩めることも、声をかけることもしない。
やはり、自分を買ったのは、ただの気まぐれだったのだろう。
市場に並べられた珍しい品を、ほんの一時、面白がって持ち帰ることにしただけ。
飽きれば、きっと捨てられる。
リュカは、そう考えた。
最初から何も期待しなければ、失うものもない。
雪の中に残るシルヴェインの足跡を追い、もう一歩踏み出す。
だが、途端に足から力が抜け、身体が傾く。
雪の中へ倒れ込む寸前、シルヴェインの腕がリュカの身体を優しく抱き留めた。
奴隷市場にいた者たちが見れば、それだけで卒倒したかもしれない。
なぜならーー銀月の魔法使いは、他人に自ら触れることも、誰かに触れさせることもしないからだ。
だが、リュカはそのような噂を知らなかった。
気づいた時には、リュカはシルヴェインに、抱き上げられていた。
「……自分で歩ける」
「そうは見えない」
「歩けるから!」
リュカは、もう一度言った。
自分でも、なぜこんなに意地になっているのか分からなかった。
シルヴェインはしばらく黙っていたが、やがてリュカの足元へ視線を落とした。
「いいから、黙っていろ」
リュカはなんだか意地を張っているのがバカらしくなり、諦めて、大人しく抱かれていることにした。
シルヴェインの腕は細く長いが、少しも揺れなかった。
外套の内側には魔法が込められているらしく、リュカの冷え切っていた指先へ次第に温かさが戻ってきた。
それは、かつて母が冬の朝に温めてくれた毛布の温もりに似ていた。
母のことを思い出した途端、胸の奥がギュッと痛んだ。
リュカはシルヴェインの外套へ顔を埋めた。
泣くまいと思っていたのに、身体はとうに、リュカの言うことを聞かなくなっていた。
涙が一粒、落ちると、もう歯止めが効かなかった。
気づけばリュカは、声を出して泣いていた。
シルヴェインは何も言わなかった。
ただそっと、リュカを抱いている手に力がこもったのが分かった。
それが、リュカにはありがたかった。
この沈黙が、シルヴェインの優しさだと思った。
しばらくすると、リュカは泣き止んだが、泣きすぎたせいで、顔はパンパンになっていた。
「……ねぇ、僕はあなたの弟子になるんだよね?」
「ああ。元はと言えば、市場には庭師を探しに行ったんだがな」
「……じゃあ、僕は庭仕事をすればいい?」
「いや、お前は俺の弟子にすると決めたんだ。庭仕事はしなくていい」
「……じゃあ、弟子っていうのは、何をすればいいの?」
「さあな。まだ、決めていない。俺は弟子というものを取ったことがないのでな」
リュカは顔を上げた。
銀糸のヴェールに覆われた顔は、相変わらず何を考えているのか分からない。
「一度も?」
「ないな」
「千年も生きているのに?」
「千年生きれば、誰もが弟子を欲しがるとでも?」
リュカは黙った。
「……うーん。じゃあ、僕に魔法を教えてくれるの?」
「ああ。私が知っている魔法のうち、お前が死ぬまでに学べるものだけのものを全て教えよう」
「全部は無理なの?」
「人間の一生は短いからな」
シルヴェインは淡々と続ける。
「人間は、この世の理をようやく少し知ったと思う頃には、死ぬ支度をしなければならないものだ」
その言葉に、悲しみはなかった。
嘲りもなかった。
ただ、何度も同じものを見送ってきた者だけが持つ、静かな諦めがあった。
リュカは、シルヴェインの横顔を見た。
先ほど素顔を見たときに感じた、果てのない夜。
あれは、彼が過ごしてきた、千年という途方もない時間だったのかもしれないとリュカは思った。
「……あなたは、死なないの?」
問いかけると、シルヴェインの歩みがわずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
「生きているものは、いずれ死ぬさ」
「いつ?」
「それが分かれば、誰も死を恐れないだろう」
シルヴェインは、それ以上は答えなかった。
***
シルヴェインはリュカを抱いたまま、扉の向こうへ足を踏み入れた。
「ここは……?」
「魔法使いの領域ーー”宵境の森”だ」
木々はどれも、王都の森で見るものより遥かに高かった。
幹には青白い苔が光り、枝の間を小さな影が飛び交っている。
鳥のようにも見えたが、翼の代わりに薄い蝶のような羽を持っていた。
「あれはなぁに?」
「ああ。森に住む妖精だ」
リュカが顔を上げると、そのうちの一匹が近くまで飛んできた。
掌に乗るほどの小さな生き物。
尖った耳と、少女のような可愛らしい顔。
背中には半透明の薄い羽が四枚あり、淡い光を放っている。
妖精はリュカの顔を覗き込み、驚いたように目を丸くした。
それからシルヴェインを見て、彼の耳元までくると、何かを喚いた。
「今、何て言ったの?」
「聞く価値もないことだ」
妖精は不満そうにシルヴェインの銀髪を引っ張った。
次の瞬間、その身体は薄い氷に包まれ、小さな氷塊となって雪の上へ落ちた。
リュカは目を見開いた。
シルヴェインは歩みを止めない。
後ろでは氷の中の妖精が、懸命に小さな拳を振り回していた。
その様子が少しだけ可笑しくて、リュカは唇を緩めたが、自分が笑ったことに気づきすぐに顔を伏せた。
やがて、木々の向こうに灯りが現れた。
森の奥に、一軒の屋敷が建っている。
古い石造りの建物だった。
いくつもの尖塔が月を突き、蔦に覆われた壁には、数え切れないほどの窓が並んでいる。
屋根には青い炎をまとった鳥が止まっていて、屋敷の周囲には、季節の異なる庭が広がっていた。
ある場所では雪の中に白い花が咲き、別の場所では真紅の木々が葉を落としていた。
さらに奥には、夏の陽射しを閉じ込めたような温室があり、その硝子の向こうで巨大な向日葵がゆっくりと首を動かしている。
「ここが、あなたの家?」
「今日から、お前の家でもある」
リュカはなんだか胸が苦しくなった。
「ずっと、一人で住んでいるの?」
「一人ではない」
シルヴェインが答えるのと同時に、扉が喋る。
「おかえり、シルヴェイン!随分と遅かったね」
リュカは驚いて、シルヴェインの胸に顔を埋める。
「開けろ」
「合言葉は?」
「”お前を暖炉にくべるぞ”」
「正解ー!」
扉が笑いながら開いた。
温かな空気が、二人を包む。
乾いた薪の匂い。
煮込んだ果実の甘い香り。
遠くから聞こえる、食器の触れ合う音。
それはリュカが長いあいだ忘れていたものだった。




