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銀月の魔法使いと、ただひとりの弟子  作者: 桔梗


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3.それは、必然の出会い

鉄籠の鍵が開けられた。

競売人が乱暴に腕を掴もうとした瞬間、その手をシルヴェインの杖の先が遮った。


「気安く触れるな」


シルヴェインの声は静かだった。

だが競売人は、まるで火傷でもしたかのように手を引っ込めた。


「立てるか?」


シルヴェインの言葉に、リュカは黙って立ち上がった。


足首の鎖が重い。

凍えた足に力を入れると、針で刺されたような痛みが走った。

それでも、誰かに抱えられるくらいなら、這ってでも自分の足で立ちたかった。


籠を出る。

初めて近くで見た目の前の魔法使いは、ひどく背が高かった。

白い外套から、冬の夜の匂いがした。

雪と、木々と、消えかけた火のような何処か儚い匂い。


「お前、名前は」


シルヴェインが尋ねた。

リュカは答えなかった。


ーー月の落とし子。

ーー麗しの人形(マリオネット)。

ーー真冬の金糸雀(カナリア)。


これまで、両親以外は誰も、リュカを名前では呼ばなかった。

だから、目の前の魔法使いが、自分の名前を呼んでくれるはずがないと思った。


「口が利けないのか?」


リュカは首を横に振った。


「では、名前を」


リュカは迷った末、答えた。


「リュカ」


「そうか」


それだけだった。

シルヴェインはただ、確かめるようにもう一度口にした。


「リュカ」


自分の名前が、初めて聞く言葉かのように心の奥底まで響いた。


シルヴェインが杖の先でリュカの足に嵌められた鎖に触れる。

金属は白い花びらに変わり、音もなく床へ散った。

軽くなった足首を、リュカは見下ろした。


「逃げたければ、逃げても構わない」


思いがけない言葉だった。

リュカは、驚いて顔を上げる。


「……買ったのに?」


「嫌がる者を、無理やり従える趣味はない」


「……なら、どうして僕を買ったの?」


「さあな」


「僕が綺麗だから?」


「お前より美しいものなど、いくらでも見てきた」


シルヴェインは答えた。


「春の最初に咲く花。百年に一度だけ羽化する蝶。星の海を渡る竜。お前は、あれらほど美しくはない」


リュカは目を瞬いた。

褒められなかったことに、驚いている。

美しいことなど、お前のすべてではない。

そう言われたような気がした。


***


シルヴェインは出口へ向き直った。


「私は帰る。お前も好きにしろ」


リュカは階段を見た。


「王都の門は日没に閉じる。逃げるなら、南門は避けろ。あそこは見張りが多いからな」


「あなたと一緒に行かなくてもいいの?」


「お前の足だ。どこへ向けるかは、お前が決めろ」


本当に興味がないような声だった。


リュカは出口を見た。


階段を上がれば、外へ出られる。

けれど、その先に行く場所はなかった。

逃げたところで、腹を空かせ、雪の中で凍えるだけだ。

それでも、この男についていく理由にはならない。


リュカはシルヴェインを見上げた。

銀のヴェールの奥に、その顔は隠されている。


「どうして、顔を隠しているの?」


広場の空気が凍った。

競売人が息を呑む。

周囲の客たちは、子供の無礼を恐れるように目を伏せた。

シルヴェインだけが動かなかった。


「見たいのか」


リュカは頷く。


「そうか。ならば、見せてやろう」


白い指が、ヴェールの端へ触れた。

周囲から悲鳴が上がる。


「お、お待ちください!ここでお顔をさらしては――」


シルヴェインは構わず、ヴェールを持ち上げた。


銀糸が、月の光のように滑り落ちる。

その瞬間、周囲から音が消えた。


誰も息をしなかった。

誰も瞬きをしなかった。


シルヴェインの銀髪が、白い頬を縁取っている。

切れ長の紫の瞳。

薄い唇。

男らしいとも、女らしいとも言えない。

人間という形を借りて、この世で最も美しいものだけを集めたような顔だった。

神が人間を惑わせるために作ったのだと言われても、信じられるほど美しかった。


ある女が泣きながら跪いた。

別の男は、夢遊病者のようにシルヴェインへ手を伸ばす。

競売人は胸を押さえ、苦しげに呻いた。


ーー欲しい。

ーー愛されたい。

ーー触れたい。

ーーこの男の目に映る、ただ一人になりたい。


言葉にならない願いが膨れ上がり、会場を満たしていく。

誰もが彼の美しさに魅せられていた。

ただ一人を除いて。


リュカには、違うものが見えていた。

紫の瞳の奥に積もった、果てのない夜。

人々の熱に囲まれながら、誰よりも暗く遠い場所にいる男。


美しいとは思った。

けれど、それ以上に――ひどく寂しそうだった。


リュカはしばらく彼を見つめた。

そして、ずっと不思議に思っていたことを尋ねるように、彼の頬に手を当て、首を傾げた。


「どうして、そんなに寂しそうなの?」


シルヴェインの紫の瞳が、わずかに見開かれた。

そのとき初めて、千年を生きた魔法使いの顔から、作り物めいた表情が消えた。

それは、ほんの一瞬だった。

驚きと戸惑い。

そして、遠い昔に失くしたものを見つけたような、痛みにも似た感情。

シルヴェインはゆっくりとヴェールを戻した。


「リュカ」


「なに?」


「先ほどの話は取り消す」


白い手が、リュカへ差し出される。

手袋に包まれた、長く美しい指だった。


「お前は、私と来い」


「どうして?」


「お前を、私の弟子にする」


「……僕、魔法使えないよ?」


「今はな」


リュカは差し出された手を見つめた。

リュカはおそるおそる手を伸ばし、白い手袋の指を握った。

冷たいと思っていたその手は、不思議なほど温かかった。


その日ーー千年のあいだ、ただの一人も弟子を取らなかった銀月の魔法使いは、美しい少年を連れて王都から姿を消した。

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