20
「馬鹿か、オメェは」
そう言いながら、黒く塗られた爪先で額を軽く弾かれた。少しだけ痛みは感じるけれど、顔を顰めるほどでもないそれに、しかしシェリルは驚いて、反射的に身を竦ませる。
殴られたことも、蹴られたことも、たくさんあった。時には刃物で傷を付けられたり、腕が折れるのではないかと思うほど捻られたりも。
しかし、額を指先で軽く弾かれるだけというのは初めての経験で、しかもそれが明らかに“気を遣った力加減”だったと分かるからこそ、シェリルはどぎまぎしてしまう。これは“暴力”というよりも"からかい"だ。呆れた相手に向ける、軽い悪態のようなもの。或いは、大人が子どもを叱責する時のような、ちょっとしたお仕置き。
「お前が想定外の無茶をやらかすから、どっかの過保護野郎にちくちく詰られてんだが?」
深々とため息を吐き、眼前に腰掛ける彼は、どさりと音を立ててやわらかな背もたれに深く身を預けた。そうして再び、今度は呆れを通り越して苛立ちを滲ませた息を、長くゆっくりと吐き出す。黒いズボンに包まれた長い脚を組み替えながら。
曰く、あの一室全体には、バルコニーも含め、彼――イヴリスによる結界が張られているらしい。そうするよう指示を出したのはセラフで、一介の魔術師如きでは見破ることも突破することも不可能な、高度な技術で練られた結界だということだった。
外部からの攻撃や侵入を防ぐ為に施されたそれは、バルコニーから誰かが侵入するのを弾き飛ばすだけの力はあるものの、しかし、内側から飛び降りることを防ぐ力は無論ない。
それはイヴリスの言葉通り、"想定外”に他ならないからだ。まさかそんなことはしないだろう、と――外部にのみ効力が発揮されるよう設計されたそれには、その“想定外”を防ぐ手立てなど、最初からなかったのだ。
幸いなことに――シェリルにとっては複雑な心境ではあるものの――結界に“異変”が生じた際、術者本人であるイヴリスと、魔力を有するセラフに“感覚”として報せが届く仕組みとなっていたおかげで、シェリルは既の所でセラフに救われた。あれがなければ、誰ひとりとして駆けつけることは出来なかっただろうし、飛び降りた事実は夜が明けて漸く知られることとなっただろう。
そんな話を、シェリルは美しい内装の中ぶりな馬車の中で、延々と聞かされていた。王城の正門を抜けるより以前、イヴリスと向かい合う形で座席に腰を落ち着けたその瞬間から、ずっと。
――君に、観てもらいたいものがある。
ティータイムの時間に僅かばかり部屋を訪れたセラフにそう告げられたのは、件の出来事から一昼夜明けてからのことだった。
その為には馬車で王城を出る必要があるようで、護衛兼案内役としてイヴリスを帯同させると聞かされた時、シェリルは内心少し驚いたものだ。彼とはアレン以上に接点がなく、まともに会話をしたのも一度きりしかない。
そんなイヴリスとふたりで出かけるというのは、どうにも落ち着かない心地にさせられる。アレンのように人懐っこく愛嬌があるわけでもなければ、セラフのようにやさしいわけでもない。どちらかといえばぶっきらぼうで、面倒事を嫌がるような性格と思しき彼と、どう接すれば良いのか、シェリルは未だに掴み損ねていた。
「後先くらい、ちゃんと考えろよな」
イヴリスの指摘はどれも的を得ていて、シェリルは返す言葉もなく、ただ手元に視線を落としたまま口を噤む。彼は基本的に遠慮というものがなく、歯に衣着せぬ物言いをする。しかもその言葉がどれも、ぐうの音も出ないほど正しいとなれば、尚の事その容赦の無さが胸に突き刺さって、ただただ身を竦めているしかない。
彼はきっと、自分のことが嫌いなのだろう。セラフからの指示でなければ、護衛兼案内役など引き受けなかったに違いない。――そう思いながら、シェリルは腿の上で握り合わせた両手に僅かばかり力を込める。一秒でも早く、このふたりきりの狭い空間から解放されたかった。
窓の外からは、馬車の車輪が石畳を転がる軽やかな音が聞こえる。それに紛れて、日常を営む人々の、活気に満ちた賑やかな声も。
そうっと目を上げ、窓の外へと視線を向ける。広場の中央に設けられた白亜の噴水、それを取り囲むようにして円形に軒を連ねる幾つもの露店。中には台も立てずに、地面に布を敷いて品を並べるだけの商人の姿もある。切り花を売る店、菓子を売る店、果物や野菜を売る店、衣服を売る店、雑多ゆえに混沌とした店――。
煉瓦敷の広場のそこかしこで、買い物を楽しむ者もいれば、談笑に興じる者、噴水の縁に腰掛けて串焼きを頬張る子どもたち、仲睦まじげに身を寄せ合う男女の姿も見受けられる。
十年も幽閉され、助け出された後も基本的に王城の中で過ごしてきたシェリルにとって、それら全てが、とても新鮮な光景だった。他の人々にとっては何でもない日常の一部でしかないのだろうけれど。幽閉される前でさえ、ろくに外出をさせてもらえなかった彼女の目には、店主と値切り合っているらしい主婦の姿さえ、眩しいほど輝かしく映る。
そんな喧騒にまみれた広場を抜け、暫く路を進んだところで、漸く馬車が停まった。窓の外では、錬鉄製の柵越しに、花壇に植えられた色とりどりのチューリップが気持ち良さそうにそよいでいる。
御者が施錠を解き、キャビンの扉を開ける。先に腰を上げたのはイヴリスで、シェリルを一瞥することも一声かけることもなく、さっさと扉を潜ってステップを降りていった。
促されたわけではないけれど、まさかここで乗ったままでいるわけにもいかない。少しくらい説明があれば嬉しいのだけれど、と思いながらシェリルも扉を潜ると、脇に控えていた御者がさっと手を差し出してくれた。
その気遣いに甘え、シェリルは御者の手に自分の手を添えながら、ゆっくりとステップを降りる。
果たして此処はどこなのだろう。イヴリスの背に半ば隠れるようにして辺りをきょろきょろと見回していると、不意に視界が真っ暗になった。強い――それでも幾分加減はされている――力で、頭を押さえつけられる感覚とともに。
驚いて身動ぐと、視界の端で黒い何かがひらりと揺れた。それがフードの縁だということに気付き、ああ、とシェリルは息をつく。どうやらイヴリスの手によって、強引にフードを被らされたらしい。
外出には、魔術師が纏うのと同じローブを身に着けるように――。何故かそう指示を受け、シェリルはアニエスが調達してきた――というより、恐らくはイヴリスから預かったのだろう――小柄な女性用のローブを着ている。何故そうする必要があるのか確かめたかったのだけれど、馬車の中ではイヴリスが愚痴とも説教ともつかない話を延々としていた為、ついぞ訊くことは出来なかった。
目深に被ったフードの、限られた視界の中に映るのは、綺麗に敷き詰められた鈍色の石畳と、丁寧に刈り込まれた灌木、そして色彩豊かな花の咲き乱れる幾つもの花壇。人の話し声らしきものは聞こえず、物音も聞こえない。
ただただ静かな、何処とも分からない場所に暫し突っ立っていると、やがてどこからともなく足音が聞こえてきた。こつん、こつん、と。石畳を叩くその音は、シェリルたちの傍までくるとぴたりと止まり、代わりにとても上品な、それでいて凛とした女性の声が届いた。
「お待ちしておりました。イヴリス・ヘーゼルダイン様と――」
ふと視線を向けられたのを感じ、シェリルは身体を強張らせる。恐る恐る顔を上げ、フードの影から相手の様子を窺うと、そこには背筋をぴんと伸ばして姿勢正しく佇む壮年の女性の姿があった。色素の薄いグレーの髪をシニョンにまとめ、ほっそりとした身体には白い襟とカフスが特徴的な黒いドレスを纏っている。
そんな彼女と、ぴたりと視線が交わった。夜闇を思わせるような、黒い瞳と。
思わずどきりとし、背筋に震えが走る。しかし彼女はそれを察したのか、目元に薄く皺を寄せながら、にこやかに微笑んだ。
「――名も無き魔術師様」
それが自分のことを指しているのだと、シェリルはすぐには気付けなかった。声音からして、シェリルが本物の魔術師でないことは、彼女には分かっているのだろう。それでもこうして"名も無き魔術師"とはっきり口にしたということは、此処ではそういう"設定"で通すことになっているらしい。
「忙しいところ悪いが、案内を頼む」
「ええ。承知致しました」
事前に説明のひとつでも欲しかった、とつくづく思いながら、シェリルは案内役の女性の後に続いて足を進める。
石畳で整えられた真っ直ぐな路の先には、荘厳な雰囲気を纏った立派な建物が聳えていた。四方に配された巨大な尖塔、所々に設けられたタレットやヴェネチア窓。それらに囲まれた中央には、クーポラを戴いた正方形の建物がずっしりと鎮座し、玄関の上部には美しいステンドグラスの嵌め込まれた薔薇窓が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。
一見、立派な寺院か何かと見紛う外観をしているが、しかしアーチ型の扉を潜って一歩中へ入ると、此処が寺院でないことにシェリルはすぐに気が付いた。鼻先を掠める消毒液のつんとした匂い、忙しなく動き回る白いエプロン姿の女性たち。彼女らの抱えるトレイには包帯や綿、ピンセットなどが並び、中には水を張った桶を抱えている者もいる。
建物の内側はとても広く、至る所に二階、三階へと続く階段や廊下が見受けられ、その全貌を把握するのは難しそうだった。
「此処は、王家が運営する王立の施療院だ」
案内されるまま階段を昇りながら、漸く口を開いたイヴリスが端的に説明してくれる。国王の名のもとに、長年に亘り受け継がれる形で運営されてきた王立の施療院――。ここへ運ばれるのは基本的に、軍の負傷兵か、或いは町医者では治療の困難な難病を抱えた者が多いのだという。
そんなイヴリスの言葉に補足するように、女性が静かに口を開いた。
「此処は、怪我を負った者、重い病を患った者にとって、最後の寄す処なのです」
一瞬だけ肩越しに振り向いた女性と、目が合う。やさしくも厳しそうな、それでいて寺院に祀られた女神像のような、深い慈愛の滲んだ瞳。
もしかしたら、この人は――。そう思っていると、先頭を歩んでいた女性が漸く歩みを止めた。それに続いて、イヴリスもシェリルも足を止める。俯けていた顔をそっと上げると、女性の前には木材と錬鉄を組み合わせた扉が佇んでいた。扉に取り付けられたプレートには、部屋番号を示すものなのか、五桁の数字が並んでいる。
女性がイヴリスを一瞥し、それにイヴリスが頷き返すのを認めて、女性は扉をゆっくりと開いた。刹那、先程よりも強い消毒液の臭いが鼻腔を満たし、くぐもった低い呻き声のようなものが聞こえてくる。
「さあ、こちらへどうぞ」
そう促され、竦みそうになる足を叱咤して、躊躇いがちに部屋の中へと足を進めたシェリルは、一歩踏み込んだ瞬間、愕然として目を見開いた。
木製の床、漆喰で塗られた白い壁。それらに囲まれた室内には、六台の簡素なベッドが規則正しく、一定の間隔を保って並んでいる。それぞれのベッドの傍らには小ぶりなチェストと木製の丸椅子がひとつずつあるだけで、それ以外には何もない。開け放たれた窓から清らかな風が流れ込み、薄いレースのカーテンの裾をふわりと翻している。
六台あるベッドは、全て埋まっていた。足を棒で固定し、包帯でぐるぐる巻きにされた者、腕に奇っ怪な形をした器具を取り付けている者、家族と思しき女性と途切れ途切れに会話をしている者、吊り下げられた箱から細長い管を通して体内に何かを注ぎ込まれている者。
多種多様な光景を前に、シェリルは言葉を失った。みな屈強な体格をしているところからして、恐らくは負傷兵だろう。
「御覧の通り、ここで手当を受けている者はみな、数ヶ月前に漸く終わりを迎えた隣国との戦で傷を負った者たちです」
いつの間にかすぐ傍に立っていた女性が、くるりと室内を見渡しながら言葉を続けた。
「足を骨折している一人以外、五人は重傷でした。此処へ運び込まれた時には息も絶え絶えで、助かる手立てがあるのだろうかと、医師が頭を抱えた者さえおります」
確かに、どの負傷兵も何らかの治療を受けている。しかし、女性の言う“医者が頭を抱えたほどの重傷者”が誰であるのか、ひとりひとり確かめてみても、それが誰であるのかすら見当もつかない。
それほど、彼らの病状は確実に回復へ向かっているのだろう、とシェリルは思う。みな肌の血色はよく、身体を動かした際に呻きをこぼす者こそいたものの、あからさまに痛みに苦しんでいる者の姿はない。
「それで……魔術師様に、是非ご覧になって頂きたいのが、こちらでございます」
そう言いながら、女性はシェリルを左側の真ん中に置かれたベッドへと案内する。そこには、奇っ怪な形の器具を腕に取り付けた男性が横たわっていた。清潔な白いシーツ、微かに漂う苦い――恐らくは薬か何かだろう――匂い。
「これ、は……」
思わず声をこぼしたシェリルに、女性はふふっとやさしく微笑む。そうして彼女は、男性の腕に取り付けられた器具を指さした。
「こちらは、医療用に開発された魔道具です。原動力には――とある“希少な魔法石”が用いられています」




