逃走
深い山奥の静けさが辺りを包んでいた。風はほとんどなく、木々の葉はじっと動かず、鳥のさえずりも遠くでかすかに聞こえるだけだった。薄暗い夕暮れの空が、山の稜線をぼんやりと浮かび上がらせている。
玄関から出てすぐの地面は、赤い花が絨毯のように敷き詰められていた。美しい光景でもあるがーー眼前でポトリ……と、花首から落ちる様を見た美緒は、顔をしかめた。
「ねぇ、ここってーー」
「しっ、声のトーン下げて」
「ごめん……。ここってどこだろ? 」
「千葉の別荘地だよ。いまは廃れて人がほとんどいない」
「そういえば、どうやって中に入ったの? 玄関は鍵がかかってたよね? 」
「あぁ、それはねーー。前に、田所さんと来たことがあってさ。その時に教えてもらったんだよ。裏の窓には鍵がかかってないから入れるよ、って」
「ハハハ……」という、美緒の乾いた笑いを聞いて、三浦は苦笑した。その時は秘密基地みたいで楽しかったのに、いま見ると、とても汚い場所に思えてならない。
「……こんなことになるなんて人生、何が起きるかホント分かんないな」
それは独り言のようであり、自分に言い聞かせているようでもあった。美緒は聞こえてないふりをして、敢えて受け流した。
「ーー私のお気に入りのがま口バッグ……あいつらが持ってるのかな? 」
「たぶん、そうだと思う」
「ふ~ん……。なら、いっか」
「え? いいの? 」
驚いた三浦は足を止めて、振り返った。美緒は悪戯っ子が何か企んでいるような顔で笑っている。それが何を意味するのか、三浦にはまったく分からなかった。
「ねぇ、三浦さん、携帯は? 」
「あるけど……。これジムから貰ったやつだから、電源切ってる」
「追跡ソフト入りなのね? 」
「うん……。これをくれた田所さんが言ってた」
「ってことはぁ、直接の連絡手段がないのかぁ……」
美緒は困り顔でうーんと小さく唸った後に、三浦の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、私がさらわれたの見たから助けに来たんだよね? じゃあ警察も近くにいるかな」
三浦はすぐさま目線を逸らし、言葉を詰まらせた。口をきゅっと結んで、沈黙を続けている……。
「もしかして……連絡してない? なんで? 」
「そ、それは……。でも車があるから、それで逃げられる。早く行こう! 」
三浦は焦ったように前を指さした。その手には、さっきから握りしめている細い木の棒がある。
「……それ、まだ持ってるんだ」
美緒は棒に一瞬だけ視線を落とし、呆れ顔で三浦を追いかけた。
落ち葉の道をだいぶ歩いた先に、白い軽自動車が止まっていた。美緒が押し込められた冷蔵庫のような建物からは、かなり遠い。佐伯に見つからないように、用心したのだろう。車に辿り着いた三浦は素早く運転席に座り、美緒が助手席のシートベルトをしている間に発進した。
ここから美緒が住む街まで、ゆうに2時間はかかる距離だ。必ず無事に届けなければという強い思いが、三浦の胸に湧き上がる。自然と、ハンドルを握る三浦の手に力が入った。夕暮れの風に揺れる樹木の葉が、赤く染まった空の光を受けて静かに揺れた。
美緒が三浦と車に乗り込んだ頃別荘から美緒が消えたことに気付いた佐伯たちは、動揺を隠せなかった。玄関の鍵がかかったままだというのに、いったいどうやって逃げたのか理解できずにいる。顔面蒼白で別荘の部屋を走り回る田所を、綺麗な顔を歪ませた佐伯が椅子を蹴り上げる音で、さらに震え上がらせた。
「あの女を探せ! 絶対に逃がすな! 」
部屋の空気が佐伯の怒号でピリピリと張り詰めた。田所は防犯カメラの映像を確認していたのだが……まずいものを見てしまったと言わんばかりに、『げっ……』と漏らしたまま、固まった。
三浦が自分が教えた方法で別荘に忍び込み、しばらくした後、美緒と一緒に出て行くシーンが裏口に設置したカメラに映っていたのだ。
「佐伯さん……三浦が女を逃がしたようです」
佐伯はその報告に目を見開き、信じられない思いでモニターの画面を凝視した。
「なんで三浦が……。どういうことだよ」
落胆を表すような大きなため息を佐伯が吐いた隣で、田所はバツが悪そうな顔を見られないように俯いた。自分の失態がバレたら、佐伯に何をされるか分からない。早鐘をうつ鼓動が聞こえないことを祈りながら、声をしぼり出した。
「み、三浦が女を連れて出て行くところがはっきり映ってます」
「……同じことを2度も言うな」
「す、すみません」
佐伯は画面から目を離し、冷たい声で言った。
「ーー金を持って逃げてる三浦と、女を一緒に捕らえれば一石二鳥だ……」
「田所、すぐに追うぞ。俺の車を回してこい。……行き先は分かってる。」
「は、はいっ」
「桐谷は別荘の裏にある車で先回りしろ。あの街に辿り着く前に捕らえるんだ」
「了解しました」
緊迫した空気が部屋を包み、全員の動きが一気に加速した。
読んでくださり、ありがとうございます。
今回の章は、美緒と、木の棒を手に持った三浦がようやく外へ出て、逃走が始まります。
佐伯たちの怒りも頂点に達しつつあり、物語は一気に加速していきます。




