雪の朝
朝の光はカーテンの隙間からやわらかく差し込み、部屋を淡い金色に染めていた。
夢の余韻が、まだ胸の奥に温かく残っている。
『雪ちゃんは、お母さんの誇り。お母さんの宝物。お母さんはずっと、あなたが大好きよ』
雪は優しい母の声で目が覚めた。
あの声は、もう二度と聞けないと思っていた。
母からの言葉が胸にあたたかく残り、雪はしばらく布団の上で目を閉じた。
やがてあくびをしながらベッドを抜け出すと、キッチンの方から、夫の声がした。
「おはよう、ユキ。朝ごはんできてるよ」
少し大きめの眼鏡をかけた雪の夫――テオが、寝癖を直しきれない栗色の髪を揺らして立っていた。
眠たげな目をしているのに、微笑みはいつも通り優しい。
「ありがとう、すぐ行くよ」
テーブルには、香ばしいパンの匂い、目玉焼きの黄色、庭の野菜で彩られたサラダ。
湯気の立つコーヒーからは、ほっとする香りが広がっている。
こうして並んで朝を迎えられること自体が、雪にはありがたくて仕方なかった。
テオは、雪がこの世界に来てすぐ、路頭に迷っていたところを助けてくれた人だった。そして今は、医師としての彼女を支えてくれる大切な家族。事務方から診療所の維持、そして新薬製造まで、黙々と手を貸してくれている。
雪はコーヒーをひとくち啜ってから、切り出した。
「ねぇテオ、ちょっと相談なんだけど……」
「ん? どうした? 伯爵夫人の診察で何か問題でも?」
警戒するように眉を上げるテオに、雪はパンをちぎりながら言った。
「んーん、そうじゃなくて……私がリーリエ伯爵の生き別れた娘だったことがわかって、養女にならないかって誘われてるんだよね」
「……え?」
テオはスプーンを取り落としかけ、眼鏡が鼻の先までずり落ちた。
「ねぇそれ本当!?」
割り込むように入ってきたのは、我が家の元気娘・ユーリ。十二歳になったばかりの少女は、目をキラキラと輝かせて身を乗り出してきた。
「ママが実は伯爵令嬢だったなんて! それってすっごくロマンチック! それで社交界で王子様に見初められてお妃様になっちゃうんじゃない!? キャー!」
はしゃぎまわるユーリを横目に、雪は思わず苦笑する。
いやいや、ママはすでに結婚して君を産んでますけどね。ロマンス小説の読みすぎだ。
「それで、ユキの気持ちはどうなの?」
ようやく落ち着きを取り戻したテオが、 問いかけてくる。
「そうね……今は、気持ちを整理する時間をもらってるって感じかな」
正直に言えば、悪い話ではなかった。
医師としての活動は続けていいと言われているし、新しい診療所の建設まで提案されている。抗結核薬の製造も伯爵家の正式な事業として後押しされ、流通の面でも心強い味方となるだろう。
そして、母の娘に戻れるという奇跡。
何より――雪は、ユーリに視線を向けた。
ユーリもまた、雪と同じ治癒の力を持って生まれていた。
今はまだ隠し通せているけれど、いつか誰かに知られたとき、平民の立場では守りきれない。伯爵家に入ることで、ユーリを守る手立てとなるのなら。
「ただなぁ……」
雪は肩をすくめ、苦笑混じりに言った。
「貴族になるってことは、社交活動だとか政治のあれこれとか、いろいろあるでしょ? 今みたいに自由には動けなくなりそうで」
「その心配はないんじゃない?」
テオが穏やかな笑顔を向けてきた。
「ユキはちゃんと分別を持って行動してるし、町の人たちにも信頼されてる。美しい所作も身についてる。領主の娘として受け入れられる素地は十分あるよ」
言われてみれば、診療所を開いて十年――近隣では“北の良い魔女”として親しまれていた。
魔女って呼び名だけで警戒する人も多いけど、大抵は、会って話せば皆心を開いてくれた。
「ねえママ……」
今度はユーリが、きらきらの瞳で見上げてくる。
「ママのドレス姿、見たいなぁ」
期待に満ちた甘え声。
……ああ、もう。娘が可愛い。
「はぁ、人生って本当、どうなるかわかんないよね」
雪はため息まじりに言ってみたものの、口元は自然と緩んでいた。




