父から受け継ぐもの
雪がエマの部屋を出ると、廊下の薄明かりの中にセイルの姿があった。
腕を組み、眉間に深い皺を刻んで立ち尽くしている。まるでこの瞬間を待っていたかのように、彼の瞳が雪をとらえた。
「少し、良いだろうか……」
雪は静かにうなずき、セイルに伴われるまま、彼の執務室へと足を踏み入れた。
整然とした空間に、仄かに香る古書の匂い。静けさの中、緊張が募る。
「母から聞きました。伯爵は……その、私の父なのですね」
雪が切り出すと、彼はしばし黙し――深くうなずいた。
息を吸い、雪は率直に言った。
「正直、驚いています。私とさほど歳の変わらない貴方が、父だなんて」
雪から見て、セイルは父というより兄と言った方が自然な年齢だった。
セイルは苦笑を浮かべ、僅かに肩をすくめた。
「向こうとこちらでは、時の流れが違う。君が来た頃、私はまだ二十代半ばにすぎなかった」
「そうなのですね……」
しばらく沈黙が続いた。だが、この空白を恐れてはいけない気がした。
「私は父を知らずに育ちました。正直に申し上げれば……父を恋しく思うことはあまりなかったかもしれません。でも……会ってみたいとは、いつも思っていたんです」
セイルは視線を伏せ、言葉を受け止めるようにゆっくりと頷いた。
「それは、母が語ってくれた父が、誰より誠実で素晴らしい人だったからです。そして――」
雪は少しだけ表情を崩す。
「『ハンサムで、背が高くて、王子様みたいで、声も素敵で、何もかも母の好みだった』……とも」
「そ、そうなのか……」
耳まで赤くして言葉を濁すセイルに、雪は思わず笑いがこみ上げる。母の言葉と彼の仕草が、不思議と重なって見えた。
「雪と……呼んでも、いいだろうか」
やがてセイルは真剣な面持ちで尋ねた。
「はい」
「雪……君と百合子さんのことを、あの日離れて以来、考えない日はなかった。君は私のことを……父と思ってくれるだろうか」
雪は一度深く息を吸い、うなずいた。
「私には、生まれつき治癒の力があります。それは、きっと……あなたから譲り受けたものですね」
セイルの瞳が揺れる。
「……知らなかった」
「母にも、あまり話していなかったと思います。けれど私は、子どもの頃からこの力を使うたび、いつも“誰か”を感じていました。外傷は癒せても、内側の苦しみまでは癒せなくて……だから私は医師になりました」
雪は柔らかく微笑む。
「私の中に、いつも“父”がいました。それが……あなた、だったのですね」
雪が言い終えると、セイルは目頭を押さえる。彼は静かに震える声でつぶやいた。
「ありがとう、雪。……生きていてくれて、本当に」
鼻の奥がツンと痛む。
雪は「この歳でようやく親孝行ができるのも、悪くないな」と思った。
「……まぁ、まだ『お父さん』と呼ぶのは照れ臭いのですが」
「ああ。徐々にでいい。お互いを知っていけたら」
ふふっと笑い合う。その小さな笑みが、いま始まったばかりの「家族の記憶」の第一章になっていく。雪には、そんな気がしていた。




