母と娘
部屋の中に差し込む午後の光が、白いカーテン越しに柔らかく揺れている。その淡い明るさのなかで、エマと雪は、穏やかに微笑んでいた。
「それで、お母さんは……エマとして伯爵様に嫁いで、幸せなの?」
思わずそう尋ねた雪に、エマはゆっくりとうなずいた。
「ええ、もちろんよ。あなたのお父さんと、また夫婦になれて……幸せだわ」
その顔には、なんの迷いもなかった。
結核の症状は、日に日に落ち着いてきている。長く苦しめていた咳も、ずいぶん減った。薬が効いていることに、雪は医師として確かな手応えを感じていた。
けれど、それ以上に……
目の前の母が、少女の姿でありながら確かに“母”であることが、不思議と腑に落ちていた。
最初はもちろん戸惑った。
自分よりもずっと若い容姿の女性に「実は母親です」と打ち明けらるなんて、常識では受け入れがたい話。
でも、話し方、間の取り方、笑い方、雪の癖を見抜いて指摘するところまで……どこをとっても、雪の知る“早川百合子”そのものだった。
そして何よりも。
この世界に来てしまったという現実自体が、非常識そのものなのだ。であれば、もう、多少の“奇跡”にも驚くまいと、雪は心を決めた。
「はぁ……ほんと、こんな巡り合わせがあるなんて、まるでおとぎ話ね」
ぽつりとこぼすと、エマは少し寂しげに眉尻を下げた。
「あら……雪ちゃんは、また会えて嬉しくないの?」
その声に、雪は慌てて手を振った。
「そんなわけないでしょ! 嬉しいに決まってるじゃない!」
エマの声音には、幼いようでいて、確かに雪の記憶にある“母”の温もりが宿っていた。
そして雪は、別れた日から何度も独りで繰り返した言葉を、自然と口にしていた。
「お母さん……心配させてごめんなさい。私、なんとか頑張ってるよ」
すると、エマはふわりと笑って、目を潤ませながら言った。
「雪ちゃんは、お母さんの誇り。お母さんの宝物。お母さんはずっと、あなたが大好きよ」
そう言って、両腕を伸ばし、雪をそっと抱き締める。か細くて、少女の腕なのに、あまりにもあたたかくて……懐かしい匂いがした。
気づけば、雪は黙ってその腕の中に顔を埋めていた。
──何十年ぶりだろう。母に抱きしめられるなんて。
私は二十五歳でこちらの世界に来た。あのときの母は、ちょうど、今の私と同じくらいの年だった。
夫は戦争で亡くなり、娘の私も消息を絶った。
母は、あの後どれほどの絶望を抱えて生きたのだろう。八十歳で亡くなるまで、誰にも心を許さず、独りきりで。
考えるたびに、雪の胸はきゅっと締め付けられた。
「お母さん……絶対に、私が治してみせるからね」
雪は、震える声に決意を込め、そう言った。するとエマは、昔と同じように優しく、雪の頭をポンポンと撫でてくれた。
その仕草に、雪の中の何かが決壊した。
ぽたぽたと涙が頬を伝い、雪は声を出さずに泣いた。
懐かしくて、切なくて、でも幸せで。
母の腕の中は、子どものころと、今の記憶が交差する、やさしい春の陽だまりのような場所だった。




