眩暈
その日、エマの体調は不思議なほど良かった。
身を起こすことができ、自分の手で水を飲むことができた。
目をしっかりと開け、言葉を交わすことができる。
久しぶりのそんな日が、彼女には嬉しかった。
迫るような足音が廊下に響く。
勢いよく開かれた扉から現れたのは、セイルだった。
その顔は、今にも泣き出してしまいそうな痛切な表情。
瞳の縁には涙の跡が残り、疲れ果てた様子が滲んでいた。
──あぁ、久しぶりにお顔を見た。
泣いてしまったの?
清一さん……
傍らに控えていた医療者たちは、気圧されるようにたじろいだ。
「……少しでいい。二人きりにしてくれ」
低く告げるセイルに、彼らは目を見合わせ、やがて深く一礼して退室した。
静寂の中、ようやく二人は向かい合う。
セイルは何も言い出せずに立ち尽くしていた。
そんな彼に、エマはそっと微笑んだ。
「……お化粧もしていないのに、恥ずかしいです」
その一言に、セイルの胸は詰まり、やっと声を絞り出した。
「後妻などと、どうしてそんなことを」
その言葉だけで、エマはすべてを悟った。
微笑んだまま、静かに答える。
「貴方には……守るべきものが、必要だからです」
「貴女がいてくれればいいじゃないですか!」
「そう出来ないときが来ます」
セイルは膝をつき、エマの手を握った。
それは思っていたよりもあまりに細く、今にも折れてしまいそうだった。
「貴女は何もかも諦めたようなことばかりして……それで私が喜ぶとでも思うのですか! 私がいつそんなことを頼みましたか! ともに生きようと……そう言ったのは、貴女じゃないですか……」
祈るように握りしめられる手。
エマの胸は痛んだ。
──本当は、貴方一人を置いていきたくない。
こんなに私を信じて離さない貴方のことが、心配でたまらない。
貴方を置いて死にたくない。
しがみついて生きていたい。
それでも、無情な終わりは、すぐそこまで近づいている。
本当は言うまいと思っていたことが、つい口をついて出る。
「貴方は……私を、追いかけてしまうでしょう?」
セイルは顔をあげ、愕然としたように目を見開いた。
──見透かされていると、思ったかしら。
でも、解ってしまう。
清一さんの、セイル様の考えていることは、どうしたって。
貴方は私の夫だから。
私たちは、夫婦なのだから。
エマは目を閉じ、口の端をわずかに上げた。
「……セイル様ならきっと、新しい人やリーリエの民を置いて行くようなことはしないと思いました。あなたは、そういう人です。優しくて、守るべきものを放っておけない──」
「そんなこと、勝手に決めないでください!」
セイルが縋り付いて叫ぶ。
「貴女が私を救ったんです! 暗闇に手を差しのべたのは貴女です! どうして突き放すんですか!」
「セイル様」
「貴女がいないのなら、私はもう無理です! 生きていたくない!」
「セイル様」
「貴女が何と言おうと、私は貴女の側を離れない! 永遠に、ともにいます!」
「お願い」
「嫌です、そんなこと、エマ!」
「生きてください」
「嫌です……エマ……置いていかないで……」
セイルの涙は止めどなく頬を伝い、肩を小さく震わせていた。
迷子の少年のように心細い姿。
抱き締めて慰めてあげたい。
「私は死なないわ」と言ってあげたい。
エマの胸は張り裂けそうになる。
──この人を救うには、どうすればいい?
どうすれば「生きる」と言ってくれる?
貴方を説得できるだけの言葉が、見つからない。
私にできることは、もう……
エマは視線を窓の外に向けた。
庭園の梅の木が見える。
ねぇ、清一さん
百合子なら、貴方を救える?
「……もうすぐ、雪が咲きます」
セイルが驚いたように瞬きをした。
エマはそっと微笑み、最後の言葉を紡ぐ。
「百合子の願いなら、聞いてくれますか……清一さん」




