蒼白、赤
その年いちばんの冷え込みの日、白い雪がしんしんと降り積もっていた。
「けほっ……はぁ、はぁ……けほっ……」
リーリエ領を走る馬車の中、エマは朝からしきりに咳き込み、息を切らしていた。
傍らに座るローラは、心配そうに背を支えながら、厚手の毛布を掛け直す。
「奥様、どうか温かくなさってくださいませ」
今日の予定は、領内の医療機関の代表者たちが集う定例報告会の視察だった。
セイルの治癒の力を求めて近隣のけが人が集まるリーリエ領は、他の領地に比べ医療体制が充実していた。そのため医師の数も多く、彼らは領主の庇護のもと厚遇を受けている。
エマは、そうした医師たちと親交を深めるため、自ら足を運んでいたのだった。
「どうぞ無理はなさらないでくださいませ。視察ならば、また次の機会に……」
ローラが懇願するように言葉を重ねると、エマはむせる呼吸の狭間で小さく笑った。
「ローラは……もう、気づいているのでしょう。私が、各地を回る理由を」
「もう……どうかお話なさらないでくださいませ!」
ローラの声は震えていた。しかし、エマは優しく首を振る。
「大丈夫よ。今は……私にできることを、しなければ」
頬に汗を浮かべながらも、心配をかけまいと微笑む。その健気な笑顔がかえって、ローラの胸を締め付けた。
「いつでも休めるよう手配しておきます。……くれぐれも、無理だけは」
「ありがとう……ローラ」
そう言ったときには、もう目的地に馬車は着いていた。
扉が開かれるや否や、待ち構えていた医師や看護師たちがわっと集まってくる。
「奥様!よくお越しくださいました!」
「お待ちしておりました! さあどうぞ中へ!」
雪の冷たさも忘れるほどの歓迎を受け、エマは不調を隠し、にこやかに微笑んだ。
その笑顔に出迎えた人々は一瞬で魅了され、彼女を囲んで中へと導いていく。ただひとり、ローラだけが心配そうにその背を見つめ、足取りを急がせていた。
*
「リーリエ領の発展にともない、医療に使える研究費も拡充いたしました。このおかげで、常備薬を新しくしているところでございます」
医療者たちが順に立ち上がり、それぞれの現状を報告してゆく。
エマは一人ひとりの声に耳を傾け、柔らかに微笑んでいた。
それはまるで、清一の功績を報告されているような気持ちだった。
彼がこの地でどのように生き、どんな思いで人々を守ってきたのか。想像するたび胸が熱くなる。
かつて早川家で願った未来は、今このリーリエの地で確かに実現していた。
「近頃は見たこともない得体の知れない薬品で治そうとする、無茶な医者もどきもいるようです。……皆様、くれぐれもそのような者に惑わされませぬよう」
一人の医療者の言葉に、会場がざわついた。
リーリエ領の医療は他領に比べれば進んでいる。それでも、かつての日本から見ればまだ幼い段階だ。薬はほとんどが漢方に頼り、魔術やまじないに縋る者も少なくない。
エマは心の内で唇を噛む。もっと進めなければ。この地の未来を。だからこそ、研究費の確保を最優先にしてきたのだから。
「それでは最後に、奥様からお言葉をいただけますか」
場に集った視線が、一斉にエマへと注がれる。
エマはゆっくりと立ち上がり、一人ひとりと目を合わせてから、静かに口を開いた。
「皆様、本日のご報告をありがとうございます。この地がリーリエの領地となって以降、あなた方の力なくして今の医療はありませんでした。
……これからも、どうか、この地のために。領主セイル・リーリエに、皆様の力をお貸しください。彼を助けて差し上げてください。どうか……お願いいたします」
深々と頭を下げる。
その光景に、会場は息を呑んだ。
領主の夫人が、自ら領民に頭を垂れる――それは本来ならありえないことだった。
しかしエマの謙虚な姿勢はいつも領民たちの心の支えとなっていた。彼女のこの誠実さは、その場の人々の胸を打った。
しばし沈黙ののち、割れるような拍手が広がった。
視察会場の空気は、エマの言葉で温かく満ちていた。
拍手の余韻がまだ残る中、エマは椅子へ腰を下ろそうとした。
――が、その手が小さく震えていることに、誰も気づかない。
「奥様、どうぞおかけくださいませ」
ローラがそっと肩を支える。
エマは、硬直していた。
その横顔に、かすかな蒼白が広がっていく。
「奥様?」
「っ……!」
エマの身体が大きく揺れ、唇から鮮烈な赤がこぼれ出た。
咳き込む衝撃と共に、大量の血が絨毯を濡らす。
あまりに突然の光景に、場にいた者たちは一斉に立ち上がり、ざわめきが広がった。
「奥様――!」
ローラが悲鳴のように叫び、必死にその身体を抱き留める。
視界が揺れる。
天井が遠ざかっていく。
人々の慌てふためく声が、遠くに霞んでいる。
だめ
まだ……
赤い世界の中で、エマの意識はすうっと途切れていった。
会場は騒然となり、叫び声と慌ただしい足音が渦を巻いた。




