こじらせ
マリアベルが帰ったあとも、屋敷にはまだ彼女の嵐のような余韻が残っていた。
セイルは書類に目を落としながらも、気づけば心は別の場所をさまよっている。
――エマの少女時代。
マリアベルが示す姉妹の姿に触れたせいだろうか。
セイルはふと、まだ見ぬエマの幼い頃に思いを馳せてしまう。
きっと可憐な乙女だったに違いない。
その姿は、さぞや……
そこまで想像して、セイルははっと我に返った。
こんなことばかり考えていてはいけない。積まれた公務は山のようにある。やるべきことをやらねば……
それでも気を抜けば、心はすぐにエマへと逸れてしまう。
そんな自制の裏で、彼の心にしつこく燻る影があった。
それは収穫祭の折、エマがぽつりと告げた一言。
――「私にもかつて、親しく想う方がおりました」
……気になる。
忘れようとすればするほど、意識はそこへ引き戻される。
彼女が幼いころに親しくしていた人物とは誰なのか。
どんな人物で、今はどこでどうしているのか。
なぜ、会わなくなってしまったのか。
器の小さい男の嫉妬だということは、セイル自身、嫌というほど理解している。
だが、それでも……頭から離れない。
そこでセイルは、なるべく不自然にならぬよう、使用人たちにそれとなく尋ねて回った。
エマの幼少期について聞いたことはないか、と。
どんなものを好み、どのように過ごし、何に喜んでいたのか。
できることなら、件の“親しく想う方”についても。
しかし、返ってくるのはどこか曖昧な笑みばかり。
「旦那様は、また奥様への愛をこじらせている……」
使用人たちはひそかに視線を交わし合い、軽くあしらうように話を逸らしてしまう。
結局、セイルの胸に残ったのは、答えのないもやもやだけだった。
*
「奥様、旦那様が……怖いです!」
ルーナは今にも泣き出しそうな顔で、エマに告げ口していた。
「こそこそと奥様のことを嗅ぎまわっておいでです……! 厨房のメイドたちは、奥様に他の男の影がないか詮索されているとも言っていました!」
「まぁ……」
エマが目を瞬かせる傍らで、ローラは呆れきったように鼻で笑い、茶器に湯を注いでいた。
かけていた執務用の眼鏡を、エマは慌てて指先で押し上げる。
「そんな……私、なにかお気に障ることでもしたかしら」
「奥様のせいではございません。きっとまた、いつもの“こじらせ”です」
ローラはぴしゃりと言い切ると、湯気の立つ香ばしい茶を盆に載せた。
「この際、旦那様には奥様からガツンと申し上げてもよろしいのではないですか?」
「ガツン、と……?」
「はい。いい加減、過保護すぎると」
ローラは茶をテーブルにそっと置いた。香り高い渋みは、エマが好むものだ。
心配性のローラから見ても、セイルの過保護ぶりは度を越している。
何かとエマの行動を気にかけ、数分ごとに使用人へ報告を命じる。少しでも普段と違う行動をとれば、仕事を放り出して確認に駆け出す始末。
それを愛情と呼ぶか束縛と呼ぶかは人それぞれだが、エマにとっては「寂しがり屋の夫の甘え」にすぎなかった。
「いつまでも奥様に依存されていては、奥様も気づまりでしょう」
「……そうね。でも、あの人らしくて、可愛らしいわ」
頬をわずかに染め、照れたように微笑むエマ。その様子に、ローラは額へ手を当てた。
「この夫にして、この妻あり……ですわね」
深いため息をひとつ。
「とにかく、使用人たちが困惑しているのはよくないことです。奥様からも一度、旦那様にお話しくださいませ」
ルーナもうんうんと必死に頷いている。
エマは「そんなに気にしなくてもいいのに」と思いつつも、二人の真剣な眼差しに押されて、静かに了承した。




