今夜だけは
その朝、エマは寝室から一歩も出てこなかった。
「奥様が臥せっておられます」
その報告に、セイルの顔はたちまち青ざめる。何もかもを投げ出し、駆けるように夫婦の寝室へと向かった。
「エマ……!」
扉を勢いよく開け放つ。
ベッドの中、白い寝具に沈むように横たわるエマの姿が目に映った。セイルは慌てて近づき、彼女の顔を覗き込む。
その瞬間、視界に飛び込んできたのは、泣き腫らした瞳の痕。
その痛々しい跡に、セイルの胸は鋭く抉られた。こんな姿を目にすることになるとは、想像もしていなかった。
エマは静かに寝息を立てている。だがその呼吸は浅く、疲れ切った様子がありありと窺えた。
「……奥様は、理由を仰いませんでした」
傍らに控えるローラが、静かに言葉を継いだ。
「……とても、お疲れのご様子です」
セイルは強く唇を噛みしめ、胸の奥に重苦しい痛みを覚えながら、息を吐く。
彼はエマの枕元に膝をつき、そっと治癒の力を流し込んだ。気休めかもしれないが、何もせずにはいられない。
柔らかな光がしばし漂い、やがてエマの目元の腫れがゆるやかに引いていく。
──何があった。
昨夜の彼女は、いつもと変わらぬ微笑みを見せていた。
何が彼女をここまで蝕んだというのか。思い返しても答えは見つからず、ただ歯がゆさと自分への苛立ちばかりが募る。
長くその寝顔を見守りながらも、セイルはやがて静かに立ち上がった。
今は彼女を起こすわけにはいかない。
寝室を後にする足取りは重い。
胸の奥底で、言い様のない不安が燻り続けた。
*
エマはそのまま夜まで眠り続け、ようやく目を覚ましたときには、窓の外はすでに暗闇に包まれていた。
傍らではセイルが手を握り、彼女の目覚めを待っていた。
「……セイル様」
ゆっくりと身を起こすエマを、セイルは不安げに見つめる。
「無理はなさらないでください……気分は、どうですか」
「……大丈夫です」
エマは彼の不安に揺れる瞳を見つめて、危うく「清一さん」と呼びかけそうになった。開きかけた唇を噛む。
セイルは包み込むように、彼女を抱き寄せた。
「何か……あったのですか」
耳元で囁かれる声は、紛れもない清一のものだった。思わず鼻の奥がつんとなるのを、エマは必死にこらえる。
「何でもありません……ただ少し熱っぽくて、疲れてしまっただけです」
努めていつも通りの声色で答えると、セイルの腕の力が強まった。
「嘘はいけません……。どうして目を腫らすほどに泣いたのですか。私は心配で、今日一日、何も手に付きませんでした」
その真摯な優しさに胸が詰まる。エマは沈黙ののち、静かに口を開いた。
「……今夜、私を抱いてください」
「……え……」
思わぬ言葉に、セイルは声が裏返りそうになるのをどうにか押し留めた。とたんに心臓が早鐘のように鳴る。抱き締める力を緩め、エマの顔を覗き込む。彼女の伏し目は憂いのある艶を帯びていた。セイルは息を呑んだ。
「どうしたのですか」
「……ただ、どうしようもなく……貴方に触れたくて」
エマの小さな指が、セイルの服の裾を握る。羞じらいに染まる頬。その姿に、セイルはたやすく心を奪われてしまう。
「ですが、お辛くは……」
「お願いです、どうか」
エマはセイルの頬を両手で包み込み、その瞳を見つめた。
「……愛してください」
その一言に、セイルの鼓動は堪え難く高鳴った。
セイルは、慎重にエマに触れた。努めて優しく、少しずつ、丁寧に。
エマはセイルの指の動きをひとつひとつ確かめながら、自ら服を解いていく。セイルを受け入れようとするエマの行動が、さらにセイルの心を揺さぶった。
「エマ……」
吐息混じりの声に、エマは指先で彼の唇をそっと押さえる。
「……何も、言わないで」
視線が絡み合った刹那、エマの方から唇を寄せてきた。
セイルはもう理性を保つことを諦め、そのまま熱に身を任せた。
エマは、百合子として、清一と愛し合いたかった。
セイルの中に生きている、あのとき愛した清一を感じてみたかった。
彼の透き通る黒い瞳に、百合子として映ってみたかった。
百合子になって、重なって、溶け合って、彼とひとつになっていたい。
百合子に戻るのは、今夜だけ。だから今だけは──
「どうして……泣いているのですか」
セイルが切なげに表情を歪ませながら問いかけた。エマは微笑んだ。
「ただ、貴方が、生きていて、温かくて……それが、嬉しくて……」
セイルはエマの頬に伝う涙を唇で辿る。
何もかもが愛しくて、エマの涙はとめどなくあふれた。
清一の、背中、吐息、髪、瞳……すべてがここにある。
エマは心の中で、何度も囁く。
──清一さん。
大好きよ。
ずっと、ずっと。
あなたが好き。
愛しているわ。
夜が静かに明けていった。
東の空が白み始めるころ、セイルは深い眠りに落ちていた。
エマは彼の腕の中で目を覚ます。
体にはまだ温もりの余韻が残っている。
そっと身を起こし、眠るセイルの顔を見つめる。
独りぼっちで生きてきた愛しいその人が、今は穏やかな寝息を立てている。
眉間の皺もほどけて、無防備なその横顔は、昔の清一の面影を思い出させた。
「……清一さん」
声に出してはいけない。けれど唇が形をつくってしまう。
彼の頬にそっと指を這わせる。
生きている温もり。
触れれば触れるほど、彼がもう幻ではなく、ここに確かにいるのだと実感できた。
エマはそっと唇を寄せ、彼の額に小さなキスを落とす。
カーテンの隙間から、朝の光が一筋差し込む。
その光に照らされるセイルの寝顔を、エマは胸に焼き付けるように、いつまでも見つめていた。




