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私は、エマ

 それに気がついた瞬間、エマの心臓はうるさいほどに音を立てた。

 躊躇いはあった。でも、手に取らずにはいられない。じっとりと汗が掌を濡らしてゆく。


 エマはジャケットに手を伸ばし、肩から降ろした。

 内ポケットは──ある。

 指先を滑り込ませると、革の感触。


 小さな黒革製の手帳。


 手帳を持ち歩く男性など珍しくない。

 エマは息をするのも忘れて、手帳を開いていく。一ページ、一ページ。指先は熱を帯び、汗ばんでいる。政務に関する走り書きが並ぶだけ。


 ──夫の私物を勝手に見るなんて


 エマは途中で怖くなり、目をつぶった。


 こんなこと、やめておいたほうが良いわ。事実がどうであれ人のものを盗み見るようなことをして。恥ずかしい。


 閉じようと傾けた手帳が、ふいに最後までめくられてしまった。

 思わず目を開ける。折り返しの隙間に、擦りきれ、色褪せた一枚の紙が挟まっていた。


 エマはその写真を抜き取った。


 写っているのは二人。

 清一と、百合子。


 裏返すと、見覚えのある筆跡。


『松林の写真館

 百合子さん、子と。』


 セイルの、清一の、筆跡。



 エマはゆっくりと床に膝をついた。

 写真を静かに手帳に戻す。

 セイルのジャケットを握りしめ、震える手で内ポケットに手帳を差し込んだ。



 ねぇ、エマ。

 あのとき、セイル様は何と言っていた?



 ──ある事情により、私たちは離ればなれになりました。


 途方もない時間をかけて、彼女を探しました。


 けれど何の手がかりも掴めないまま、ただ時間だけがすぎていきました。


 そうしてある日、私は悟りました。二度と、会えないのだと。


 彼女が今、生きているのか死んでしまったのかさえ、私には解りません。


 生きる希望を失いました。死にたいと思いました。けれど死ぬことも許されなかった。


 私は亡霊のように生きていました──



 涙がぽとぽとと落ち、布地に染み込んでいく。



 どうして。


 どうして私は、もっと早くあの人を見つけてあげられなかったのだろう。

 孤独に震えて嘆いていたあの人を、どうしてずっと独りにさせてしまったのだろう。


 死を選ぶほど、百合子の絵に縋りついて、傷付いて。

 あのさみしがり屋の彼が、いったいどれ程の孤独に苛まれたことだろう。


 嗚咽が堰を切る。


 あれほど会いたいと願った清一さんは、ここに、生きていた。

 百合子を探して、思い続けて、苦しんでいた。

 いったいどうして、そんな残酷なことが起こってしまったの。

 あの人が何をしたというの。

 清一さん。清一さん。


 感情はぐちゃぐちゃだった。

 嬉しいのか悲しいのか、解らない。

 ただただ、清一の半生に想いを馳せて心臓が抉られた。


 エマはセイルのジャケットに顔を埋める。

 彼の香り。それはセイルであり、清一だった。

 私の愛するひと。最愛の、唯一の、かけがえのない、私の夫。


 どうして。……どうして。

 私はあの人を愛していたの。

 ずっと。

 彼も愛してくれた。

 それなのに、それだけだったのに。

 どうして。

 私はあの人を、こんなにも縛り付けてしまったの……



 エマはその夜、眠れなかった。

 セイルは清一だった。

 その事実だけが心に渦を巻き、同じ思考をぐるぐると巡らせる。


 そうして、明け方になって、ようやく一つの結論に至った。


 百合子はセイルの"呪縛"になってしまった。

 彼は今、百合子から解放され、人生をまた歩きだそうとしている。

 そんな彼に、どうして自分が百合子だと告げることができるだろう。


 私はきっと、彼よりも先に逝く。

 百合子を再び失ってしまったら、今度こそ彼は、永遠に百合子に囚われる。


 百合子は、もういないの。

 私はエマ・リーリエ。

 セイル・リーリエの妻。


 差し込む朝日をぼんやりと見つめながら、エマは小さく呟いた。


「……私は、エマ」

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