清一の回想_青年期1(清一視点)
百合。英語ではリリー、フランス語ではリス、ドイツ語では――リーリエ。
俺は縁側に腰を下ろし、膝の上で分厚な本を開きながら、小さな声でその単語を繰り返していた。
「なにを読んでいるの?」
ふいに背後から声がかかり、俺の心臓はどきりと跳ねた。振り返れば、百合子さんがにこにこと覗き込んでいる。
「……なんでもありません」
「またお父さんの本を持ち出したのね。もう、小突かれても知らないんだから」
呆れたように言いながら、百合子さんは俺の隣にちょこんと腰かけた。彼女の小さな手が、ポケットから取り出したキャラメルを差し出してくる。俺はひとつ受け取り、包み紙をゆっくり剥がした。
どうやら読んでいたページまでは見られていないらしい――そのことに、密かに安堵した。
「清一さんも、そんな難しい本を読むようになったのね」
百合子さんは唇を尖らせ、不満げに言った。最近の彼女は、俺の変化をしきりに気にしているらしい。弟のように思ってきた少年が、急に大人びてきたことが寂しいのだろう。
「背も伸びて、手も大きくなって……なんだか置いていかれちゃうみたい」
拗ねるような声音さえ、たまらなく愛おしい。
「清一さんばかりずるいわ」
彼女の半ば冗談めかして言うその言葉に、胸が跳ねた。彼女が自分を男として意識し始めている――その事実が、ことさら俺の心を浮き立たせた。
「最近、身体を鍛えているのです。お父様のすすめで」
努めて穏やかに答えると、百合子さんは「ふーん」とつまらなさそうに返す。
俺は少し間をおいて、わざと寂しげに問いかけた。
「……見た目が変わったら、僕を嫌いになりますか」
途端に百合子さんは慌てて首を振った。
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
真剣に否定してくれる彼女の反応が、嬉しくて仕方なかった。
――彼女の理想の男になりたい。頼られたい。好かれたい。
俺は、百合子さんの好きな恋愛小説を読み、彼女が好みそうな誠実で儚げな青年を演じた。俺の仕草や言葉に、百合子さんは心を揺らし、頬を赤らめてくれるようになった。それがたまらなく嬉しかった。
もっと大人になり、百合子さんに似合う男になったら――そのときは、結婚を申し込もう。そう決意していた。
だが、そんな悠長な思いは、あっけなく揺らぐことになる。
ある夜、廊下の影で耳にした早川の両親の会話。
百合子さんに縁談が持ち込まれているという話だった。
考えてみれば当然だ。気立てのよい良家の娘に、求婚者がいないはずがない。これまでは俺が必死に虫除けのように振る舞い、男たちを遠ざけてきた。だが、家同士が取り決める縁談となれば、どうにもならない。
焦りが俺を突き動かした。
誰とも知れぬ男のもとへ嫁ぐなど、考えただけで叫びだしそうだった。
衝動のままに、俺はお父様――早川の当主に直談判していた。
「百合子さんを、僕にください」
その言葉に、お父様は一瞬、目を大きく見開いた。そして、ゆっくりと諭すように声をかけた。
「……少し、話そうか」




