清一の回想_青年期2(清一視点)
お父様の書斎は、いつも少し煙草の匂いがした。
正面に座るお父様は、静かに紫煙をくゆらせながら、落ち着いた声で口を開いた。
「百合子と結婚するということは、早川の婿になるということだ。それは解ってくれるかい」
「はい、解っています」
俺は即答した。ためらう理由などなかった。
「清一くんのことは子供の頃から見てきたし、信用もしている。情もある。だが……早川という家に、どのくらい理解があるのか。不安はある」
「理解しています」
食いぎみに答えた俺に、お父様は「まぁ、聞きなさい」と柔らかく諭した。
「早川家は代々、この辺り一帯をまとめてきた。困りごとがあれば最終的にここに持ち込まれ、面倒を引き受ける。時には金貸しのようなこともする。それは、正直言ってかなり面倒だぞ」
お父様は、少し意地悪そうに笑った。俺はどう答えるべきか分からず固まってしまう。
「……屋敷や土地を受け継ぐのは容易い。しかしそれらは、代々この家が背負ってきた“責任”のしるしに過ぎない。早川の名を持つということは、人から仰がれるということだ。だが、その重みに甘えてはいけない」
煙が静かにたゆたい、重い言葉を包み込んでいく。
「百合子にはよく言い聞かせてきたが、君に話すのは初めてだね」
「……はい」
「人の上に立つ者は、まず人に施すことを忘れてはならない。誰よりも先に苦労を引き受け、誰よりも先に汗を流す。それが、昔からこの家の努めだ」
お父様の眼差しは厳しかった。
「清一くん。君には、人のために生きることができるか」
静寂の中で問われ、俺はしばし言葉を探した。そして、正直に口を開いた。
「……僕は、家も後ろ盾も、何も持たない人間です。僕のような空っぽの人間に付いてきてくれる人はいないかもしれません」
お父様は目を閉じ、黙って聞いてくれる。
「……しかし、百合子さんは違います。人のために行動し、愛することのできる人です。僕は……そんな百合子さんを尊重したい」
脳裏に浮かぶのは、あの温かい微笑みだった。
「百合子さんがいてくれるなら、僕は人のために生きることを厭いません。彼女がいる限り、僕は道を逸れません。……百合子さんが、僕の道しるべです」
心からの言葉を、静かに置いた。
しばしの沈黙ののち、お父様はようやく頷いた。
「清一くんには、しばらく私の仕事を手伝ってもらおう。覚えることは山ほどある。私について回り、しっかり学びなさい」
お父様は俺の目を見た。お父様の目は力強く、しかし穏やかに微笑んだ。
「はい」
俺は背筋を伸ばした。
認められた、ということだ。
胸の奥が熱くなり、堪えきれないほどの誇らしさに全身が震えた。
こんなに誇らしく胸を張れる気持ちになるのは初めてだった。
やがて、お父様は軽い調子で尋ねてきた。
「……それで、百合子は何と言っているんだ。もちろん了承しているんだろう?」
「いえ、百合子さんには、これから」
俺の答えに、お父様は目を丸くした。
「全く、何をしているんだ。順番が逆だろう。早く口説いてきなさい」
そう言うなり、お父様は俺の背をぐいぐい押して、部屋から追い出した。
最後に振り返ったとき、煙にかすんだその顔は、満面の笑みだった。




