交わらぬ気遣い
「……遅くなり、申し訳ありません」
やがてセイルは、低く静かに頭を下げた。
エマはすぐに微笑んだ。彼にも何か事情があったのだろうと、そう察して。
「……あら、私ったら、眠ってしまっていたようですわ。いつから眠っていたのでしょう。セイル様、こちらこそお待たせしてしまって……ごめんなさい」
眉を下げるその笑みは、彼女なりの気遣いだった。だが、優しい嘘など、セイルにはすぐに見抜けてしまう。
「こんなに風の通る所に、長らくいらしたのですね……温かくしてください」
彼は自分の上着を脱ぎ、エマにかけようとした。
その瞬間、エマは思わず身を引いた。
――エマは、この時のためにルーナが丹精込めて整えてくれた装いを、崩したくなかった。
「あ、……ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ……失礼致しました」
互いに胸を締めつけられながら、セイルは上着を椅子の背に掛ける。
短い言葉のあとには、重い沈黙が落ちた。お互いに探した言葉は形にならず、ただ時だけが過ぎてゆく。
「……あ、あの、セイル様」
沈黙を破ったのはエマだった。
「お渡ししたいものがあるのです……どうぞ、これを」
エマは、握りしめていたものをそっと差し出した。彼女の両の手のひらに載せられたのは、緑の宝石のブローチ。月明かりを受けて、それは淡く煌めいている。
エマは不安げにセイルの顔を伺う。セイルは、固い表情のまま視線を落とした。
――そして、ゆっくりと彼女の手に自分の手を重ねた。その温もりで、ブローチの輝きは彼の掌に覆い隠される。
「……その前に。貴女にお伝えしなければならないことがあるのです」
セイルは、差し出されたエマの手を静かに押し下げた。
温もりを感じながらも、エマは拒絶の気配を敏感に感じ取り、不安に胸を揺らす。
「聞いて、いただけますか」
セイルの声はくぐもっていた。そのかすかな声音に、彼の苦しみが滲んでいた。エマは、ゆっくりと頷いた。
やがて、長い沈黙ののち。
セイルの声が、夜の静寂の中にそっと置かれた。
「――私にはかつて、妻がいました」




