彼とひとつの世界を
広場には、楽団の軽やかな笛の音と太鼓のリズムが響き、そこは人々の笑い声で満ちていた。
老いも若きも、子供も大人も、皆が輪になってくるくると踊っている。
子どもたちの笑い声、手拍子、靴音が混ざり合い、空気をいっそう華やがせている。
「奥様も、一緒に!」
ふいに領民の少女に声をかけられ、エマははっと顔をあげた。
隣のローラは心配そうに彼女を見ている。だがエマはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ」
差し出された小さな手に導かれ、エマは人々の輪へと加わった。
知らないはずの踊りなのに、音楽の波に身を任せていると、自然と足が動く。体を委ねるだけで、不思議と一体感が胸に広がった。ふと見れば、ルーナも楽し気に混ざっている。
皆が手を繋ぎ、声を重ねる。心がほどけていくようだった。
やがて曲が終わると、広場中から歓声と拍手が巻き起こった。
エマは笑顔で周囲へと拍手を返す。だがそれが自分へ向けられていると気づいた瞬間、頬が熱を帯び、思わず深々と頭を下げた。
――顔を上げた瞬間、視線が絡んだ。
人混みの向こう、遠くに佇む彼。
久しくすれ違っていた夫、セイルの姿が、そこにはあった。
胸が跳ね、呼吸が乱れる。エマは思わず視線を逸らした。けれど、そっともう一度見やると、彼は人々を縫ってこちらへ歩み寄ってきた。
「セイル様、こちらにいらしたのですね」
踊りを見られた気恥ずかしさを隠すように、エマは努めて平静に声をかけた。
「少し見回りをしていたところです」
変わらぬ低い声音。だが、その眼差しは彼女に注がれていた。
彼の変わらぬ穏やかな口調に、返す言葉が続かない。
二人を包む沈黙。
そこへ、楽団の奏でる旋律が切り替わった。
ゆったりとした三拍子――ワルツ。
夫婦や恋人たちが次々と中央に集まり、手を取り合う。互いを見つめ、寄り添いながら舞い始める。
広場の灯りは提灯に照らされ、オレンジや金の光が夕暮れをやわらかく溶かしていた。
輪になって踊る人々の笑い声、楽団の奏でる調べ……そのすべてが遠のいていくように、エマには感じられた。
「……エマ様」
セイルが一歩近づき、手のひらを差し出した。
「よろしければ、踊りませんか」
鼓動が耳まで響く。
エマは頷き、震える手を、そっと重ねた。
指先が触れるだけで、全身が熱を帯びる。
腰に添えられた手に導かれ、二人の距離がぐっと近づく。
近い――。
音楽が確かに響いているのに、エマの耳には彼の息遣いだけが届いてくる。
初めての舞踏なのに、不思議と安心して身を任せられる。
彼の腕は優しく、それでいて確かにリードしてくれる。
――香り。温度。視線。
心地よくて、怖いほどに愛おしい。
「……近ごろ、お見かけする機会が減りました」
視線を落とし、エマは小さく言葉を零した。
その言葉に、セイルの指先がほんのわずか強く触れた気がした。
「……私に至らないところがあれば、どうか仰ってください。こんな体ですけれど……なるべく、貴方の負担にはなりたくないのです」
笑顔で言いながら、胸が締め付けられる。
けれどセイルは、慌てたように言葉を返した。
「……っ、貴女のせいでは! ただ……貴女があまりにも、美しいから」
吐息のような声。思わずエマは息を呑む。
思いもよらぬ言葉に、エマは目を上げることもできず、ただ彼の腕の中で舞った。
周囲のざわめきがふっと遠のき、灯りが二人だけを照らすように感じられた。
エマはそっと顔を上げた。セイルと目が合う。
その瞳に映っているのは――確かに自分。
二人の世界に、誰も入り込めなかった。
曲が終わると、歓声と拍手がふたたび広場を満たした。
二人は深く礼を交わし合い、その視線が絡む。
現実が戻ってきて、エマは小さく頬を赤らめた。
――嫌われていたわけでは、ないのかしら。
その想いが胸の奥で小さく光を灯した。
「セイル様」
勇気を振り絞り、声を震わせる。
「収穫祭の最後の花火を……ご一緒していただけませんか?」
鼓動が耳の奥で鳴り響く。
「……私の部屋のテラスが、一番、綺麗に見えるそうなのです」
エマはわずかに目を伏せた。
「……私でよければ、ぜひ」
優しい声音。目線を上げたエマは息をのむ。
見上げた彼の眼差しは、慈しむように、深く、あたたかかった。
「……セイル様、お渡ししたいものがあるのです……お待ちしております」
囁くように告げる。
頬を染めながらも、エマは幸福に微笑んだ。
エマの胸には、ほんの刹那、彼と一つの世界にいたという幸せが残っていた。




