表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
44/118

執務室の奥、彼の私室

 夜は深まり、静まり返った執務室の奥。

 書類の山をようやく片付けたセイルは、重たい身体を引きずるように私室へと足を運んだ。


 このところ、政務に加えて収穫祭の準備がのしかかり、目まぐるしく一日が過ぎていく。

 忙しさにかまけていれば、エマと顔を合わせずに済む。その事実に、セイルは安堵していた。


 室内の灯りは落とされ、壁にかかる一枚の絵画だけが、淡い光を受けて浮かび上がっている。


 セイルは椅子に腰を下ろし、ぼんやりと”それ”を見つめた。

 柔らかな微笑みを浮かべる女性――ただ一人、彼が愛した人。


 けれど、思考の中心に浮かぶのは、今の妻、エマのことだった。


 ――エマ。

 最近の彼女は、眩しいほどに美しくなった。

 あどけなさは少しずつ薄れ、成熟した女性としての輝きを放ち始めている。

 その変化が、セイルには辛かった。


 心を奪われる。

 目が離せない。

 触れたい。

 抱き寄せたいという衝動に駆られる。


 セイルは髪を乱暴にかきあげ、低く息を吐いた。


 生涯ただ一人を愛すると誓った。

 もう会えないのだと解った時、人生は終わったも同然だと嘆き、生きる力を失った。

 ――そこへ現れたのが、あの子。エマ・グランフォード。


 容姿は全く異なる二人だが、ふとした仕草や言葉の端々が、あの人を思い出させる。

 まるで乗り移ったかのように。

 そう錯覚する度に、違うのだと自分に言い聞かせてきた。


 セイルはあの事件のあと、目覚めた彼女が言った言葉が、頭から離れないでいた。


「……セイル様……綺麗よ」


 そう笑ったエマは、もはやセイルが求めて止まない彼女でしかなかった。


 セイルは、二人を混同し始めている自分が心底嫌いだった。

 もう会えないあの人の代わりにエマをあてがって、自分の欲を満たしている。自分がやっているのはそういうことなのではないのか。


 それは、どれほど身勝手で卑怯なことか。

 まるで替えの聞くおもちゃであるかのように、彼女たちを扱っている。これでは、ヴィクトルとやっていることは変わらない。彼女たちはそれぞれ別の人間であるというのに。


 それでも、会ってしまえば。

 言葉を交わし、笑い合うだけで、あの人のいない心の空白が埋められて、満たされてしまう。


 その事実が、セイルにはひどく恐ろしく、罪のように彼を苛んだ。



 ふらりと立ち上がったセイルは、絵画に手を伸ばす。

 そこにあるのは、微笑むだけの物言わぬ女性の姿。


「……あの子は貴女とおなじようなことを言うんです。情けない僕を見て、"綺麗"だと」


 セイルはいつものように、絵画の女性に話しかけていた。


「……百合子さん、僕は卑怯な男です」


 低く震える声が、静かな部屋に溶けていく。


「あなた以外の女性を妻にしました。その人を、あなたの代わりにして満足しようとする……僕は最低な男です」


 ぽつり、ぽつりと、言葉は絞り出される。


「……怒ってください。僕を叱ってください。罵って、何でもいい……声をかけてください」


 セイルは絵の前に項垂(うなだ)れた。

 背は大きいはずなのに、その姿はあまりにも小さく、孤独だった。


「……貴女を、忘れたくないんです……」


 かすかな声は夜の空気にほどけ、音もなく消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ