執務室の奥、彼の私室
夜は深まり、静まり返った執務室の奥。
書類の山をようやく片付けたセイルは、重たい身体を引きずるように私室へと足を運んだ。
このところ、政務に加えて収穫祭の準備がのしかかり、目まぐるしく一日が過ぎていく。
忙しさにかまけていれば、エマと顔を合わせずに済む。その事実に、セイルは安堵していた。
室内の灯りは落とされ、壁にかかる一枚の絵画だけが、淡い光を受けて浮かび上がっている。
セイルは椅子に腰を下ろし、ぼんやりと”それ”を見つめた。
柔らかな微笑みを浮かべる女性――ただ一人、彼が愛した人。
けれど、思考の中心に浮かぶのは、今の妻、エマのことだった。
――エマ。
最近の彼女は、眩しいほどに美しくなった。
あどけなさは少しずつ薄れ、成熟した女性としての輝きを放ち始めている。
その変化が、セイルには辛かった。
心を奪われる。
目が離せない。
触れたい。
抱き寄せたいという衝動に駆られる。
セイルは髪を乱暴にかきあげ、低く息を吐いた。
生涯ただ一人を愛すると誓った。
もう会えないのだと解った時、人生は終わったも同然だと嘆き、生きる力を失った。
――そこへ現れたのが、あの子。エマ・グランフォード。
容姿は全く異なる二人だが、ふとした仕草や言葉の端々が、あの人を思い出させる。
まるで乗り移ったかのように。
そう錯覚する度に、違うのだと自分に言い聞かせてきた。
セイルはあの事件のあと、目覚めた彼女が言った言葉が、頭から離れないでいた。
「……セイル様……綺麗よ」
そう笑ったエマは、もはやセイルが求めて止まない彼女でしかなかった。
セイルは、二人を混同し始めている自分が心底嫌いだった。
もう会えないあの人の代わりにエマをあてがって、自分の欲を満たしている。自分がやっているのはそういうことなのではないのか。
それは、どれほど身勝手で卑怯なことか。
まるで替えの聞くおもちゃであるかのように、彼女たちを扱っている。これでは、ヴィクトルとやっていることは変わらない。彼女たちはそれぞれ別の人間であるというのに。
それでも、会ってしまえば。
言葉を交わし、笑い合うだけで、あの人のいない心の空白が埋められて、満たされてしまう。
その事実が、セイルにはひどく恐ろしく、罪のように彼を苛んだ。
ふらりと立ち上がったセイルは、絵画に手を伸ばす。
そこにあるのは、微笑むだけの物言わぬ女性の姿。
「……あの子は貴女とおなじようなことを言うんです。情けない僕を見て、"綺麗"だと」
セイルはいつものように、絵画の女性に話しかけていた。
「……百合子さん、僕は卑怯な男です」
低く震える声が、静かな部屋に溶けていく。
「あなた以外の女性を妻にしました。その人を、あなたの代わりにして満足しようとする……僕は最低な男です」
ぽつり、ぽつりと、言葉は絞り出される。
「……怒ってください。僕を叱ってください。罵って、何でもいい……声をかけてください」
セイルは絵の前に項垂れた。
背は大きいはずなのに、その姿はあまりにも小さく、孤独だった。
「……貴女を、忘れたくないんです……」
かすかな声は夜の空気にほどけ、音もなく消えていった。




