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セイルの涙

 セイルは、エマの部屋の扉を静かに押し開けた。

 淡い陽光がカーテン越しに差し込み、薄暗い室内に柔らかな影を落としている。

 そこには、身の回りの世話をしている侍女ローラと、ベッドに力なく横たわるエマの姿があった。


 あの日、吐血して倒れてから三日――。

 エマは高熱にうなされ、未だ目を覚ましていない。熱こそ峠を越えたものの、その顔色は青白く、唇の色はまだ血の気を失っていた。


 セイルはローラに目で合図を送り、そっと席を外すよう促す。

 ローラの頬には疲労が色濃く滲んでいた。おそらく、ほとんど眠っていないのだろう。彼女は深々とお辞儀をして、静かに部屋を後にした。


 残された静寂の中、セイルはベッド脇の椅子に腰を下ろし、エマの手をそっと握った。

 その手は驚くほど軽く、冷え切っていて、細い。思わず深く息を吐く。


 ――私のせいだ。


 胸の奥で、幾度目か分からぬ悔恨が波を打つ。

 あの時、もっと強く反対していれば……

 ヴィクトルから目を離さなければ……

 あの日、彼女にあの男と対峙させなければ……


 いや、もっと遡れば、最初から――彼女と結婚など、していなければ。


 考えれば考えるほど、心の奥底へと沈んでいくようだった。

 自分なら守れるという、愚かで尊大な思い上がり。

 その過信こそが、彼女をこんなにも苦しめたのだ。


 セイルは震える手で、エマの肩にそっと触れた。

 初めてそこに痛々しい痣を見たときの衝撃が蘇る。

 この細い肩が、どれほどの痛みを耐えたのか。想像するだけで胸の奥が鋭く抉られる。


 治癒の力でその痣はとっくに消えている。

 それでもセイルは、毎日、何度でも、同じ箇所に力を送り続けた。

 そうせずにはいられなかった。ほとんど祈りにも似た衝動に駆られ、治癒の力を注ぎ続けた。


 ぼんやりと光を帯びる肩を見つめながら、セイルは思う。


 ――彼女を伴侶に迎えるべきではなかった。


 公爵家で、静かに穏やかに暮らしていれば、彼女はもっと幸せだったはずだ。

 私が、傍にいてほしいと望んだばかりに……


 こんな姿にさせてしまうくらいなら、いっそ、離れるべきではないのか……




 そう思った瞬間、エマのまぶたがかすかに震えた。

 セイルは息を呑み、彼女の手を強く握る。


「……セイル、様」


 か細く、消え入りそうな声が名を呼んだ。

 その響きに、胸が熱く締めつけられる。


 やがて、エマがゆっくりと目を開け、かすかに唇を緩めた。彼女の瞳が、セイルを確かにとらえていた。


「あぁ……あぁ……エマ……良かった……」


 声が震える。

 セイルはその小さな手を額に押し当て、瞳をぎゅっと閉じた。

 こぼれた涙が、彼女の手の甲を濡らす。


 エマには、ぼんやりとした視界の中で、そのセイルの涙の雫だけが鮮明に輝いて見えた。なんだか懐かしい光景な気がして、胸に温かなものがよぎった。


「……セイル様……綺麗よ」


 エマは僅かに開いた唇で、そう呟いた。


 エマの言葉に、セイルは思わず顔を上げる。

 何もかも包み込むような優しい笑みがそこにあった。

 その微笑みの前では、後悔も自責も、言葉にすることすら許されない気がした。


 セイルはただ、黙って彼女のそばにいた。

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