彼等の思惑
セイルは激しい後悔に苛まれていた。
――あのとき、なぜもっと強く反対しなかったのか。
なぜ彼女の提案を受け入れてしまったのか。
なぜ誘拐を阻止できなかったのか。
あの夜の光景が、幾度となく脳裏をよぎる。
あと一歩、遅れていたら――。
彼女はあのおぞましい男に、無惨に弄ばれていただろう。
考えただけで、喉の奥が灼けるように熱くなる。
殺してやりたい――その衝動を、セイルは必死に押し殺した。
執務机に肘をつき、額を押さえる。
事件から、もう三日が経っていた。
あの後すぐ、伯爵家はレイモンド侯爵家へ正式な抗議を送った。
ヴィクトルは、厚顔にも「エマのほうから迫ってきた」などとのたまったが、複数の使用人の証言と、拷問の末に口を割ったレイモンド家従者の証言により、その虚言は容易く崩れ去った。
こうして、ヴィクトルの罪は白日のもとに晒された。
今、ヴィクトルは伯爵家の屋敷内で軟禁されている。
レイモンド家当主は罪を認め、事件の公表を避ける代わりに、通行料を伯爵側の言い値で支払うと約束してきた。
ヴィクトルには数か月の謹慎が命じられたが、高位貴族への罰としては、この程度が精一杯であった。
……全ては、エマの描いた筋書き通りだった。
そんな折、扉を叩く音が響く。
執事のモーリスが静かに入室した。
「旦那様、バース・レイモンド様がお見えでございます」
*
「ご機嫌よう、リーリエ伯爵」
現れたのは、レイモンド家の次男、バース・レイモンド。
ヴィクトルとは違い、背はすらりと高く、日に焼けた肌を持つ男だった。
しかし、その口元に浮かぶ不敵な笑みだけは、あの兄と瓜二つだ。
「遅かったですね」
「こちらにも準備というものがありますから」
にやりと笑いながら差し出された手を、セイルは事務的に握り返す。
「お約束通り、兄を迎えに参りました。……今、レイモンド家の者が兄を馬車に乗せたところです。間もなく出立する頃でしょう」
そう告げると、バースはわざとらしく声を潜めた。
「……あえて当主ではなく私を呼んだ伯爵様のお心遣い、確かに受け取りました。
敵の敵は味方――と。手紙では触れられていませんでしたが、本心は……ヴィクトルを殺したいほど憎んでいる、でよろしいですか?」
商談でも持ちかけるような軽い口調に、セイルは眉をひそめる。
「……明言はしない」
「ははっ、わかりやすいお方だ」
バースは懐から一枚の地図を広げ、テーブルに置く。
「この辺りで、馬車は道に不慣れな御者のおかげで山道へ迷い込みます……偶然にも、山賊がよく出ることで有名な場所です」
バースの指が山の一点を示す。
さらに彼は、楽しそうに続けた。
「そういえば、ここに来る前にグランフォード公爵様へもお詫びをしてきました。兄は伯爵夫人さえ手に入れれば公爵も味方になると考えたようですが……失敗すれば当然、怒りを買う。あのご様子では、公爵家の隠密部隊がいつ兄を狙うか、わかりませんね。そうそう、もちろん公爵様にも兄が本日出立する旨、お伝えしてあります」
セイルは黙して聞きながらも、内心で相手の腹の底を測っていた。
この男――不快な笑みは兄と同じでも、切れ味は段違いだ。
「……貴殿は少々、喋りすぎだ」
「失礼。兄に似て、お喋りなところが私の悪癖でして」
セイルは一息つき、短く言った。
「借りができた。いつか返しましょう」
「はは、私も都合の良い時期だっただけです。しかし……リーリエ伯爵への貸しとなれば、得難い財産。ありがたく頂戴いたします」
バースは、心底楽しそうに笑った。




