エマの計画
「万が一のときには、この状況を利用いたしましょう、セイル様」
机に向かうエマは、真剣な面持ちでそう言った。
まだヴィクトルによる誘拐の起こる前――百合の庭園での出来事から一夜が明けた日のことである。
セイルはエマの執務室を訪れていた。エマの体調を確かめるため、そして前日に行われたヴィクトルとの会談内容を報告するためだった。
彼の胸中にはまだ、あの男の手がエマに触れようとした怒りが燻っていた。
一瞬でも遅れていたら――そう考えるたび、全身の血が沸き立つ。
彼は淡々と会談結果を伝えるつもりだった――まさか、エマの口から提案が出るとは考えてもいなかった。
セイルは一瞬、聞き間違いかと耳を疑う。
「……利用、ですか?」
「ええ。このままレイモンド小侯爵が何もせず滞在を終えるとは考え難いです。もし彼が再び何かを引き起こすことがあれば、そのときは現行犯で捕まえたのち、レイモンド家に責任の所在を求めるのです」
その声音は驚くほど淡々としていた。
そして続く言葉は、さらに現実的だった。
「そうすれば、この大幅な値引きを覆す一手となりましょう」
その口調は淡々としていたが、言葉の奥には計算された意志があった。
だがセイルの胸には、別の感情が先に立つ。
「それでは貴女は囮になるも同然ではないですか。奴の狙いは貴女だ。そんなことを許すわけにはいきません」
「私たちはリーリエの領民の生活を第一に考えねばなりません」
エマは真っすぐに彼の瞳を見つめる。
その視線には、恐怖ではなく、確固たる意志が宿っていた。
「この度の取引は全体的に魅力的ではありますが、この大幅な値下げは維持費・人件費をまかなえる最低限の価格です。領民の生活の向上を考えるなら、やはり既定の額をいただかなければ。それには、今回の件はうってつけではありませんか?」
彼女は小さく微笑んだ 。その笑みは柔らかいのに、揺るぎない。
セイルは、いつも彼女のこの強さに心を揺さぶられる。
だが同時に、その強さが自分の手をすり抜けていくようで、恐ろしくもあった。
「仰ることは、もっともですが……」
セイルは腕を組み、短く唸る。
今回の値下げは、確かにリーリエ領にとってあまり好ましくない。だが高位貴族である侯爵家の申し出となれば、簡単には断れないのが現実だった。交渉の余地ができるのはリーリエ領にとってプラスだ。しかし、彼女を危険にさらす可能性があるなど、どうにも納得しかねる――そう思っていたそのとき。
「それに、セイル様なら、私を助けてくださいますでしょう?」
茶目っ気を含ませた、エマの渾身の笑顔。その瞬間、セイルの中の緊張がわずかに揺らぐ。
確かに、治癒の力の残滓がエマに残っている限り、彼女の居場所はすぐに解るだろう。だが、だからといって軽々しく危険を許すわけにはいかないのだが……
セイルは深く息を吐き、視線を伏せた。
「……奴がこれ以上、何も問題を起こさないことを祈ります」
セイルの低い呟きに、エマは穏やかにうなずく。
「ええ、小侯爵が何も問題を起こさなければ、このままお帰りいただくだけですわ」
そう言って、エマは傍らに控えるローラに目を向けた。
「ローラ」
「はい」
「私が“ひとりになりたい”と言ったら、それが合図よ」
ローラの表情が一瞬だけ引き締まる。
「かしこまりました」
エマは再び微笑んだ。
その笑顔は、柔らかく見えて、芯の強さを隠そうともしないものだった。




