救い、散る花
ローラの報告を聞き終えた瞬間、セイルの胸の奥で何かが弾けた。
「……ヴィクトル・レイモンド」
低く絞り出した声には、驚愕と激しい憤りが混ざっていた。
別の使用人が駆け込み、息を切らせて告げる。
「さきほど、奥様が馬車で外出されるのを…見ました」
その言葉を最後まで聞く前に、セイルは執務机を離れ、外套を羽織って廊下を駆け抜けていた。
中庭に出ると、愛馬がすでに用意されている。鞍に飛び乗るや、手綱を強く引き、蹄が石畳を打つ音が夜気を裂いた。
「どこへ連れていった……」
走る風の中、セイルは目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。
――エマ。
かすかな光の糸が脳裏に浮かぶ。それは彼女に施した治癒の力の残滓。温かく優しいはずのそれが、今はか細く、怯えに震える気配を帯びている。
セイルはその痕跡を辿るように、馬を走らせた。
エマを攫うなど――許さない。
怒りは燃え上がり、血管を灼くように脈打つ。
必ず探し出す。そして、あの男を――八つ裂きにしてやる。
月明かりの下、黒い影は風を裂き、闇を駆け抜けていった。
*
扉を開けた瞬間、セイルは言葉を失った。
視界に飛び込んできたのは、ドレスの裾から覗く白い脚、頬を濡らす涙、そしてその上に覆いかぶさるヴィクトル・レイモンドの姿。
——殺してやる
脳裏で、何かがぷつりと切れる音が響いた。
セイルは無言で歩み寄ると、ヴィクトルの襟首を鷲づかみにし、力任せに引きはがす。次の瞬間、鈍い衝撃音と共に、ヴィクトルの体が床に叩きつけられ、無様に転がった。
間髪入れず、セイルの拳がその頬を打ち抜く。骨と皮膚がぶつかる重い音が室内に響き、ヴィクトルの呻き声がかすかに漏れた。
セイルは立ち上がり、荒い呼吸を押し殺しながら、ゆっくりと帯刀の剣を抜く。ヴィクトルは足元で伸びきっている。
殺意が、刃先よりも鋭くその瞳に宿っていた。
「いけません! セイル様!」
エマの叫びが、剣先を止める。
「殺めてはいけません……公に裁かなくては……っ!」
その一言で、セイルの動きが凍りついた。視線を落とせば、そこには、セイルを見つめるエマ。乱された衣服。額には汗が滲み、手首を拘束されながらも、まるで子を宥める母のような穏やかさで彼を見上げていた。
「私は大丈夫です……セイル様。……お願いです」
怒りの炎が、わずかに鎮まっていく。セイルは剣を鞘に納め、エマの拘束を解いた。外套を脱いでそっと彼女の肩にかける。
「お怪我は……?」
「心配要りませんわ」
エマは赤くなった手首を抑えながら、静かに微笑んだ。セイルはたまらなくなり、彼女をそっと抱き寄せる。セイルの香りがふわりとエマを包みこみ、その温もりが、ようやくエマの張り詰めた心を解きほぐしていく。
エマは目を細め、セイルを見上げた。
この人を求めて止まなかった。必ず来てくれると、信じていた。
「……遅くなりました」
セイルが声にならないほど小さく呟いた。
「きっと、何もかも、上手く、いき、ます」
言いながら、エマは喉がつかえるのを感じた。
「ごほっ、ごほっ……!」
「エマ様?」
次の瞬間、エマは激しく咳き込み始めた。咳は止まらず、それは次第に激しくなり、息を継ぐのもままならないほど激しくなった。
——ピチャッ。
赤い液体が、床に散った。
セイルの胸元に血が滲み、エマの体から力が抜け落ちる。
「エマ……!」
呼びかけもむなしく、彼女は意識を失い、静かに彼の腕の中に沈んでいった。




