おぞましい罠
「この度は私めの誘いにお応えいただき、ありがとうございます」
にやついた笑みとともに、ヴィクトルは低い声で告げた。狭い馬車の中、互いの膝が触れそうな距離で向かい合って座っている。
「どこに連れて行こうというのです?」
エマは声を揺らさぬよう、毅然と問い返した。
「今にわかります。なに、手荒なことは致しませんよ」
舐めるような視線が、暗がりの中でもはっきりと感じられた。肌の表面を這うような、ぬめりを帯びた感覚。エマはその不快さを、奥歯を噛みしめてやり過ごした。
「……例の部屋について、小侯爵様は何をご存知だというのでしょうか」
「入ることを禁じられた部屋、ですね。あなたが気にしているようなので、私のほうで調べて差し上げましたよ」
「大きなお世話です」
「そう言いながらも、あなたは私の誘いに乗った」
ヴィクトルは愉快そうに唇を歪めた。
「もうすぐリーリエ領内にある、我がレイモンド家の拠点区域に着きます。そこに一室、二人きりになれる場所を設けました。……そこがあなたと私の愛の巣となるでしょう」
エマは何も答えなかった。
返せば返すほど、彼の言葉はねっとりと絡みついてくるだろう。胸の奥で、恐怖がじわじわと広がっていくのを感じた。理性で押さえ込まなければ、すぐに顔に滲み出てしまいそうだった。
やがて馬車が止まり、扉が開く。夜の湿った空気が流れ込むと同時に、エマは薄暗い路地にいることを悟った。
ヴィクトルは先に降り、ためらいなくエマの手首を掴む。その指は鋼のように固く、逃れる隙間はなかった。
「……っ」
悲鳴が喉元まで上ったが、必死に飲み込む。弱みを見せれば、ますます彼は愉悦に浸るだろう。
我が物のように腰を抱き寄せられ、引きずられるようにして室内へ。
そこは古びた宿屋の一室だった。小さな机と古いランプ、木製のベッドだけが置かれた、生活の匂いの抜け落ちた空間。
嫌な予感が脳裏を走る間もなく、ヴィクトルはエマの手首に荒い縄をかけた。手首に食い込むほど、きつく縛られる。
「…っ! 何をするのです」
「念のためですよ、伯爵夫人」
「手荒なことはしないと——」
「もちろん致しません。あなたが素直であれば、ね」
湿った舌打ちのような音とともに、ヴィクトルは小さく舌なめずりをした。
「あなたのような人は、口でどんなに愛の言葉を囁いたところで振り向いてはくださらないでしょう。しかし既成事実さえ作ってしまえば、きっと良心の呵責に耐えられはしない。あなたはただ、私との愛の悦びを受け入れてくださればそれで良いのです」
エマはベッドに押し倒され、覆いかぶさる影に視界を奪われた。酒と香水の混ざった重い匂いが、吐息とともに肌を撫でる。背中にあたる木板の硬さが、まるで逃げ場を封じる檻のように感じられた。
助けて——
心の奥底で、繰り返される。
セイル様ーー
ヴィクトルがエマの顎をぐっと引き上げた。おぞましい微笑みをエマの顔に近付ける。
動け。声を上げろ。理性が命じる。
恐怖が全身を鎖のように絡め取り、エマはギュッと目を閉じた。




