ヴィクトルの誘い
静かなエマの執務室に、一人の男が訪ねてきた。レイモンド家の、黒衣の従者。
低く礼をし、声を潜めて告げる。
「ご主人様よりお手紙を預かっております」
エマの手元に一通の封書が届けられた。
深紅の封蝋には、見覚えのある紋章——レイモンド家の刻印。
エマは小さく息を呑み、ためらいながらも封を切った。
「例の”禁じられた部屋”について、知りたくはありませんか。
伯爵邸の離れーー東の庭の奥まった一角へおいでください。
必ずお一人で。」
差出人の名はなかったが、筆跡と、わずかに漂う香料の匂いで、ヴィクトルからの誘いであることは明らかだった。
胸の奥がざわめく。
——その部屋のことを、彼が何故……?
「セイル様にお見せすべきだわ」と思いながらも、紙片を握る手はじっと熱を帯びる。
「小侯爵様よりすぐにお返事を賜るよう仰せつかっております。
……“お一人で”と、強く仰せでございます」
従者は静かにそう告げた。
エマの心臓がひときわ強く脈打つ。
恐ろしい、と心は叫んでいる。
だが、あの封書に書かれた“禁じられた部屋”の文字が、エマの思いを絡め取り、まるで引き寄せられていくようだった。
エマは静かに心を決めた。
「……わかりました」
エマには自分の声が、他人のもののように遠く聞こえた。
エマは、傍らで不安げなローラに向き直り、伝える。
「ローラ、ひとりにしてくれるかしら、……お願いね」
*
辿り着いたのは、伯爵邸の奥まった一角。庭木の影が深く落ち、昼間であるはずなのにひどく薄暗い。
そこに、漆黒の馬車が一台、ひっそりと、しかし逃げ場を塞ぐかのように鎮座していた。
わずかな軋みとともに扉が開く。中から降り立ったのは、ヴィクトル・レイモンド。
「ようこそ——お待ちしておりました、伯爵夫人」
唇は笑っていても、その瞳には獲物を仕留める前の獣の光が潜んでいる。
「……」
息を呑んだ瞬間、エマの背筋に冷たいものが走る。返す言葉を探すより早く、ヴィクトルの手が伸び、白い手袋越しに彼女の手首を絡め取った。
逃げたい。けれど逃げれば、この場で彼が何をするかわからない——そんな予感が、背筋を氷のように固めた。
「さあ、こちらへ」
返事をする暇もなく、彼の手が容赦なくエマを引っ張りあげる。白い手袋越しの指が、冷たく、そして思いのほか強く手首を締め付ける。その感触だけで、全身の血が引いていくようだった。
次の瞬間、馬車の奥へと押しやられた。絹の裾が敷居を擦る音が、異様に耳に残る。
扉が閉まり、わずかな光さえ切り落とされた。
車輪が石畳を叩き、馬蹄の音が遠ざかっていく。
伯爵邸の屋根が、窓の向こうでみるみる遠ざかっていった。
まるで、もう二度と戻れない場所のように。




