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災いの前触れ

 百合の庭園。

 白い花弁が陽を受けて揺れる中、セイルの胸中には静かな苛立ちが渦巻いていた。


 あのヴィクトル・レイモンド――その軽薄な笑みも、尊大な物言いも、そして何よりエマに向ける下卑た視線も、全てが癪に障る。今すぐにでも邸から叩き出してしまいたい。


 しかし、その思いを押し留めたのは、ほかでもないエマだった。


「まだことを荒立てるべきではありません、セイル様。……慎重に様子を見ましょう」


 柔らかい声音だが、そこに込められた意志は揺るぎなかった。


「ここでレイモンド家との関係が悪化すれば、得られるはずの収益が減り、被害を被るのはリーリエ領の領民です。このまま何事もなく、小侯爵の滞在最終日を迎えられるよう、配慮いたしましょう」


 理屈は、痛いほどわかる。

 だからこそセイルは、胸に(たぎ)る憤りを押し殺し、エマの意見に従うことにした。


 ――だが。


 ヴィクトルが口にしたあの言葉が、胸の奥でじくじくと燻っている。


「若い妻を満足させられていますか?」


 下卑た挑発だとわかっていても、夫婦の年齢差を気にしないわけではない。


 エマが自ら望んでこの結婚を決めたわけではないことも、理解している。

 おそらくは、彼女はグランフォード公爵の意を汲んだのだ。

 皺のない彼女の顔を見ていると、彼女には、もっと年の近い伴侶のほうが――そう思わずにはいられない。


 しかし。

 ヴィクトルのような下劣な男は、断じて許せない。

 それだけは、絶対に揺るがない真実だ。


 滞在終了まで、あと二日。


「……耐えてみせる」


 セイルは静かに誓いを立てた。

 揺れる百合の向こう、伯爵邸の一室に、彼が守り抜くべき女性の姿があった。



 *



 エマの執務室には、紙をめくる小さな音と、湯の沸くかすかな気配だけが満ちていた。


 傍らでは、ローラがお茶の用意をしている。

 貴族が好む花の香り豊かな紅茶ではなく、エマのために選んだ渋みのある緑茶だ。香りは控えめだが、深い余韻が残る。


 エマは机に広げた領地関係の書類を一枚ずつめくりながらも、心の奥ではまったく別の思考に沈んでいた。


 ――セイル様は、なぜ私に触れてくださらないのかしら。


 結婚以来、夫婦としての営みはもちろん、手を繋いだことすらない。

 優しさも誠実さも、日々のやりとりから十分に伝わってくる。それでも、互いの距離はいつも少しだけ遠かった。


 ヴィクトル・レイモンドに言い寄られた言葉の数々は、恐ろしかった。触れられそうになったことも、とても不快だった。

 しかし、駆けつけてくれたセイルに対してはー


 触れてほしい――わけではない。

 なのに、触れようとされないことが、どうしても胸の奥に影を落とす。


 その理由を、エマはもう解っていた。

 解っている、けれど、言葉にはしない。

 もし口にしてしまえば、今のこの穏やかな日々が、そして大事に胸にしまっているものが、指の隙間から零れ落ちてしまうような気がして――



 茶器に注がれる湯の音が、静かな部屋を包む。

 そのとき、不意に扉を叩く乾いた音が響いた。エマの思考は現実に引き戻される。


 「はい、どなたでしょう」


 ローラが応対に立つ。扉の向こうから短い声が返り、ローラの表情がわずかに曇った。


 「奥様……」


 彼女はためらいがちにエマへ向き直る。


 「レイモンド侯爵家の従者が訪ねてまいりました」


 室内の空気が、ぴんと張り詰めた。

 緑茶の湯気が、ゆらゆらと不安げに揺れた。

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