安堵、のち疑念
「お怪我はありませんか!」
駆け寄ってきたセイルの声には、いつになく切迫した響きがあった。
エマは、手に付いた土をそっと払った。
「……私は、大丈夫です」
そう口にしたものの、その声はかすかに震えていた。
胸の奥では、先ほどまでの光景が幾度も反芻されていた。
――あの視線。笑っているのに、氷のように冷たい瞳。
背中に、まだその残滓が絡みついている。
セイルは息を整えつつ、低く告げた。
「ローラが慌てて呼びにきました。ヴィクトル・レイモンドが不穏だと……」
エマの心臓が一瞬、強く脈打った。
自分だけでなく、ローラにもあの恐ろしい空気は伝わっていた。思い過ごしではないと悟ると、逆に寒気が増した。
セイルの視線が、彼女の手元に落ちる。
「……手に傷があるようです」
そう告げると、彼は迷いなくエマの手を取った。彼女の手のひらには、転倒の際についた細かな擦り傷が赤く滲んでいる。
セイルはその手のひらに片手をかざした。
瞬間、そこから柔らかな光が生まれ、じんわりと温もりが広がっていく。
まるで春の陽が雪を溶かすように、痛みが静かに溶けて消えていった。
やがて光が収まると、傷は跡形もなく癒えていた。
「……これが、かの有名な治癒のお力」
エマは呟き、掌を見つめた。
セイルが“聖騎士”と呼ばれる所以――それが、この癒しの力だった。
先のドラゴン討伐では、この力で数多くの兵を救い、被害を最小限に食い止めた。その功績が、彼を領地でも宮廷でも特別な存在にしていた。
「私が治せるのは外傷だけです」
セイルは低く、静かに言った。
「この力は病には効かない。……貴女を蝕む病になすすべもなく、いつも歯がゆく感じています」
その声音には、抑えきれない悔しさと、深い慈しみが滲んでいた。
エマは胸の奥がじんわりと温まり、不安が溶かされていくのを感じる。
「……お気持ちだけで、十分ですわ」
ようやく笑みを浮かべて、そう答えた。
しかしセイルの瞳は、すぐに険しさを帯びた。
「――ヴィクトル・レイモンドは、貴女に何をしたのです」
エマは一瞬、言葉を探した。沈黙が数拍、庭園の風の音と重なる。
「……何もされませんでした。けれど、自分で言うのも憚られますが――あの方からは、恐ろしいほどの執着を感じます」
その答えに、セイルは無言で頷く。彼も同じ意見だった。
あの男は、自分に対しても、そしてエマに対しても、あまりに不用意で不遜な言葉を投げかけてくる。セイルの胸には、冷たい怒りが静かに広がった。
「セイル様、差し支えなければ……私は今後、レイモンド小侯爵とは顔を合わせない方がよいと考えております」
その意見は、既婚の貴婦人として当然の判断だった。
「今後のご対応は、お任せしてもよろしいでしょうか」
「当たり前です」
セイルの答えは即断だった。
「……あんな男の前に、二度と出てはいけません。決して」
その言葉に込められた静かな怒りが、エマには嬉しかった。
――この方は、私を守ろうとしてくださっている。
この方がいれば、きっと大丈夫。胸の奥に確かな心強さが宿る。
この方の誠実な姿勢こそ、私は信じるべきだわ――。
そう思った瞬間、これまで目をそらしてきた思いが、淡く、しかし確かな形となって胸の奥に浮かび上がってくる。
……入室を禁じられている部屋は?
その疑問が、重い石のようにエマの心に据えられてしまった。




