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白百合を裂く影

 白百合がそよ風に揺れる庭園の小道。陽光に照らされた花々の中、静かに足音が近づいてくる。


「こんなところで偶然お会いできるとは。私は実に運が良い」


 背後からかけられた声音に、エマは一瞬静止するも、すぐに表情を整え、丁寧に一礼を返す。対外向けの微笑を浮かべながらも、その瞳にはわずかな警戒の色が混じっていた。


 その様子すら面白がるように、ヴィクトルは唇を歪める。


「せっかくの良い機会です。庭園を案内していただけますか、伯爵夫人」


「……ええ。よろしければ、ご一緒に」


 エマは笑みを崩さず応じる。ローラが一歩後ろをついてくる。エマの歩みに合わせて、ヴィクトルも悠然と歩き出した。彼の視線は、花ではなく、常にエマの姿に注がれていた。まるで舐め回すように、遠慮も曇りもなく。


「ところで、夫人。今朝偶然にも、こんなものを手にしてしまいましてね」


 ヴィクトルは懐から一枚の新聞を取り出す。折りたたまれた紙面には、はっきりと大きな見出しが踊っていた。


『リーリエ伯爵、電撃年の差婚!その実体は愛のない契約結婚か?』


「世間というものはスキャンダルに目がありませんね。根も葉もない噂が飛び交うこともしばしば。しかし……」


 彼はにやりと笑みを深めた。


「全く隠し事のない夫婦というのも、なかなか存在しないものです」


 エマは足を止め、ヴィクトルをまっすぐに見た。


「……何が言いたいのですか」


「伯爵との結婚生活に、ご不満はありませんか?」


 あまりにも図々しいその問いに、エマは一瞬言葉を失ったが、すぐに毅然とした態度で応じた。


「ありませんわ」


「本当に?」


 ヴィクトルはぐっと顔を近づける。エマのパーソナルスペースが押し潰されるような距離。


「例えば、歯切れ悪く返事を濁された経験は? どこか上の空で生返事をされたことは? 外出先を告げられなかったことは?」


「ありません」


「では、入ることを禁じられている部屋は?」


 その言葉に、エマの表情がわずかに動いた。ほんの一瞬の静止。それだけで、ヴィクトルの目が笑った。


「……そんな反応では、考えていることが筒抜けですよ」


 ヴィクトルはさらに距離を詰め、エマの頬へと手を伸ばそうとした。


 しかし、


「それ以上は、たとえ小侯爵様であっても見過ごせません!」


 ローラが一歩前に出て、ぴしゃりと遮った。その声は震えていながらも、明確な意志を持っていた。


 だが――


「使用人風情が、立場をわきまえろ。下がれ」


 冷たい、刃のような声音。ヴィクトルの一言に、エマとローラの背筋が凍る。ぞっとするような威圧感に場が支配された。


「ローラ、大丈夫よ。下がっていいわ」


 エマは微笑みながら、静かにローラに告げた。ローラは悔しそうに唇を噛んだが、「……失礼いたします」と一礼し、その場を下がった。




 二人きりになった庭園の一角。


 エマは息を整え、毅然とした口調で告げた。


「これ以上の過ぎた発言は、(おおやけ)にせざるを得ません」


「構いません。ですが……本当に、公にできますか?」


 ヴィクトルの手が、今度はそっとエマの頬に触れた。エマはすぐさま、その手を振り払う。


「単刀直入に言いましょう。ひと目見た時から、私は貴女に恋をしてしまいました。私は貴女が欲しい。どうかその広いお心で、哀れな私を慰めていただけませんか?」


「……お止めください」


「嫌だと言ったら?」


 強い言葉の応酬。その直後、ヴィクトルの手がエマの腰へと伸びた。エマは逃れようと身を翻したが、足元が不安定な芝に取られ、地面に手をつく形で倒れこんでしまった。


「……はは、夫人の方から誘っていただけるとは」


 上から見下ろすヴィクトルの顔に、エマはもはや恐怖を隠せなかった。




「何をしている」


 その瞬間、空気を切り裂くような声が響いた。


 凍りつくような威圧感。そこに立っていたのは、セイル・リーリエだった。


「セイル様……」


 エマは安堵と涙の滲むような表情で見上げる。ヴィクトルはやれやれとばかりに肩をすくめた。


「夫人が転倒していたところを、起こして差し上げようとしたのですよ」


 どこまでも嘘にまみれた口ぶりで、ヴィクトルはその場を収めようとする。そして、ふっと笑みを浮かべて言った。


「夫人、またお会いしましょう。」


 その言葉を残して、ヴィクトル・レイモンドは去っていった。庭園には、切り裂かれたような沈黙と、残された二人の静かな呼吸だけが残された――。

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