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会談と白百合の庭

 朝の執務室で、エマは眉根を寄せて帳簿を見返していた。


 何度目かの確認になるが、どうにも金額に不自然な点がある。

 昨年度の記録と比較すればはっきりするのだが、それは伯爵の執務室の奥、私室にあたる書棚に保管されている。 


 ほんの数分の確認で済む。それでも、彼の私室に無断で入るのは違うと、エマはためらいを覚えた。


 彼の意志を尊重したいと思っていた。

 それは距離ではなく、信頼を守るための境界線だった。


 彼の私室は、これまでただの一度も彼女に開かれたことがない。



 エマはベルを鳴らし、静かに執事のモーリスを呼び寄せた。


「モーリス、昨年度の帳簿の閲覧申請をお願いできますか?」


 一瞬、モーリスの表情が硬くなった。だがすぐに、長年の従者としての面目を取り戻し、いつもの穏やかな声で応える。


「かしこまりました。すぐにご用意いたします」


 やがて運ばれてきた分厚い帳簿をめくり、エマは現在の帳簿と突き合わせる。

 原因は単純な計上ミスだった。すぐに修正し、すべて片づけて机に手を置く。


 エマは、こんなやりとりをもう何度も繰り返していた。



 「ふぅ……」


 思わず息を吐いたところへ、控えていたローラが温かな茶を盆に乗せて現れた。


 「少し休憩なさいませんか、奥様。……庭園の百合が、ちょうど見頃でございます」


 エマは目を細め、頷いた。


「それは素敵ね。連れていってくれるかしら」


「もちろんでございます」




 *





 一方その頃、別棟の応接室では、セイルとヴィクトル・レイモンドが会談を続けていた。

 テーブルの上には、新たな交易路設置に関する地図と小切手が広げられている。


「では、新たな拠点は予定どおり北部の街道沿いに。……通行料につきましては、まずは初月、こちらの金額でいかがでしょう」


 ヴィクトルが差し出した小切手を見た瞬間、セイルの表情がわずかに揺れる。

 金額は、現行の三割引き――明らかな値切り交渉だった。


「……随分と思い切った額ですね」


「最初の一歩ですから。こういうのは、お互い様でしょう?」


 冷静に応じながらも、セイルは条件を吟味する。


 ――地の利と安定した物流網を考慮すれば、こちらの強みは揺るがない。とはいえ、相手に譲歩を見せることで、後々の交渉に含みを持たせるのも一手。


「……妥協点として、その額で合意しましょう」


「はは、閣下は柔軟なお方だ」


 そう笑って、ヴィクトルは組んだ足を崩す。


「それにしても、昨夜は驚きましたよ。閣下が、あんなにも嫉妬深いとは」


 セイルは視線を鋭くした。


「……余計な詮索はお控えいただきたい」


「いやいや、ほんの軽口ではありませんか」


 ヴィクトルの口元には悪びれた様子はない。

 むしろ、その挑発的な笑みが余計に癇に障る。 


「伯爵夫人の魅力に辛抱たまらず、会食を途中で抜け出してしまうとは。……その後、夫人とは、さぞ楽しい夜を?」


 悪意とも色気ともとれる声音。

 ヴィクトルはさらに続ける。


「失礼、そう睨まないでいただきたい。しかし…」


 ヴィクトルはわざと間を空け、声を落とした。


「閣下ほどのご年齢で、あれほどお若い夫人を退屈させずにいられるのは、大したものです」


 セイルの目が細まる。


「……どういう意味でしょう」


「いえ、一般論ですよ。年の差というのは、時に埋めがたい距離になる…とね。若い妻を満足させられる男は、そう多くはありません」


 セイルの胸中に、熱いものが込み上げる。それが怒りか、別の感情か、自分でも測りかねる。


 ……殺意すら浮かぶ。


 ヴィクトルはそんな反応を楽しむように、にやりと口角を上げた。


 セイルはあくまで貴族としての理性で感情を押しとどめた。


「ご冗談が過ぎます。以後、お控え願いたい」


 声は冷たく、刃を忍ばせていた。


 しばし、二人の間に張り詰めた沈黙が流れる。


「……このくらいのことで腹を立てられては困りますね。では、また後ほど」


 ヴィクトルは立ち上がると、涼しい笑みを浮かべたまま部屋を出て行った。




 *




 その頃、エマは庭園の東の区画にいた。

 陽射しは柔らかく、空には高い雲が漂っている。見事に咲き誇った百合の群れが、風にそよいで香りを揺らしていた。


 土の香り、朝露を吸った緑の匂い。

 肌には、汗ばむような夏の空気がじんわりと感じられる。


「……こんなに咲いていたなんて」


 エマは目を細め、手すりにそっと触れた。花々の白が、陽を受けてまばゆい光を放つ。

 しばし心がほどけていく感覚に身を任せていた、そのときだった。


「見事な百合ですね、伯爵夫人」


 背後から、あの低く艶やかな声がかけられた。


 エマがゆっくり振り返ると、そこには微笑を湛えたヴィクトル・レイモンドの姿があった。

 その瞳には、ただの花を愛でる視線以上の、何かを探るような光が宿っていた――。

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