翌朝のセイル
セイルは朝の執務室で、己の心の動揺に呆れていた。
昨夜のことが、どうにも頭から離れない。
赤く火照った頬。潤んだエメラルドグリーンの瞳。
その目がまっすぐに自分を見つめ、そっと頬に触れてきたときの、あの冷たくて柔らかな感触。
「……ふふ、大好きよ」
その一言が、熱を帯びて頭の中に響いていた。
何度も、思い出すまいとした。
振り払って、仕事に集中しようとした。
けれど、そのたびに記憶は甘く蘇り、消えては浮かび、また消えては浮かび……まるで、囁くように心をかき乱してくる。
「……はぁ……年甲斐もなく、何をやっているんだ、私は」
セイルは椅子に背を預け、深く息を吐いた。
幸い、彼女は眠ってくれた。
もしも、あのまま目を閉じず、求めるような眼差しで見つめてきていたなら……自分は彼女に触れていただろう。
それは、彼女の身体にも、心にも、酷なことだった。
結婚したばかりで、まだ互いを知らぬ仲で――彼女は不安に震えたに違いない。
自分はなんて罪深いことを考えていたのか。
彼女の無邪気で、酔いに任せたような行動を恨めしく思いながらも、それ以上に、自らの未熟さに恥じ入る。
……初めはこの縁談など、受けるつもりはなかったのだ。
だが、あのとき彼女は言っていた。
「私、生きたいわ」と。
彼女の強く生きようとする姿に、不思議と私は慰められた。
この感情は、彼女への同情だろうか。
いや、どちらかといえば、私が救われたような心持ちがしたのだ。
彼女の中にある、命を燃やす強い意志が、私の虚しさを救ってくれた。
彼女の生きたいという思いに寄り添いたいと、私は願った。
昨夜の自分は馬鹿だった。
いい歳をして、色欲に迷うなど……自分らしくもない。
そう思い直して、セイルは背筋を伸ばし、机の上の書類をきちんと揃えた。
そして、執事のモーリスを呼ぶ。
「……エマ嬢の様子はどうか?」
気にしていないふりをしても、自然と出るのは彼女のことばかりだ。
式でのドレスは彼女に似合って美しかったが、あの儚い体には相当負荷をかけたことだろう。
モーリスは穏やかな声で応える。
「朝食は簡単に済まされたご様子でした。現在は、奥さまの執務室にて、財政に関する資料に目を通しておられます」
「……財政の資料?」
セイルは思わず繰り返した。
彼女には、ただ伯爵家で穏やかに過ごしてほしいと願っていたのに。
あの身体で……まだ体調も万全ではないだろうに。
けれど、その一方で、胸にじんわりと温かなものが湧いた。
彼女なりに、この家の一員としての責任を果たそうとしてくれている。
「……昼食は、共にと。そう伝えてくれ」
静かにそう命じながら、セイルの胸には小さな光がともっていた。




