十四章 悪魔の薔薇園
カラン。「……今日も失敗か」
人の世、そして凡その理から隔絶された世界。所謂魔界の一角の、心地良い木漏れ日の下。黒一色の大屋敷の戸外には、ミルクホワイト色の二脚のチェアとテーブルが設置されていた。
そこに座り読書をしていた二十代前半の男性は呟いた後、魔的に端正な顔を上げた。テーブルの上に残る紅茶を飲み干し、本の途中に挟んでいた栞をブラウスの胸ポケットへ収める。どうやら読んでいた詩集が丁度終わったようだ。
テーブルに立て掛けた松葉杖を掴み、胸に本を抱えて彼は立ち上がった。両脚共に悪いらしく、補助有りでも甲を引き摺っている。
向かう先はテラスの目前。妻の手入れする巨大薔薇温室だ。
キィッ。「君が呼ばれるのはこれで十回目だな、名月」
侵入者の呼び掛けに、温室内で歓談していた二人の女性が振り返った。どちらも人を離れた美人で、しかもそれぞれ非常に特徴的な容姿をしている。
向かって手前にいたのは、藍色の着物を纏う女性。ストレートの黒髪を腰近くまで伸ばし、肌蹴た胸元から白い首に掛けて牙を剥いた黒蛇を住まわせている。悪魔の眷属は時折皮膚の上を動くが、慣れているのか宿主はさして意に介していないようだ。
もう片方は宛らブラック・ミストレス(黒の貴婦人)と言った所か。纏うは漆黒のドレス、右の眼窩から咲き誇る薔薇も黒。引いたルージュも艶やかな闇色で、ある種凄然な色気を発している。
「アガスティー、歩いて来たの?」貴婦人が見た目にそぐわぬ幼い口調で問うた。「呼んでくれれば迎えに行ったのに」
「歩く練習を兼ねてさ。車椅子だと色々不便だからな」
「信じられない発言ね。折角屋敷をバリアフリーにしたって言うのに」
「まあ、動かせる物を動かすに越した事はありませんよ、レイチェル様」
不貞腐れかけた女主人に、着物美女はそうフォローの言葉を掛けた。
「正論ね。脚が樹の根でさえなかったらだけど」
杖に支えられた二本を見つめ子供のようにぷー、と頬を膨らませる。
「ああ、歩けないと図書館でも本一つ取れないしな」
「それぐらいヴィヴィや兄さんに頼みなさいよ。一体何のための管理人なの?」
両手を広げて呆れた貴婦人は、目の前に群生した蒼水晶の薔薇を忌々しげに見下ろした。彼女等は花弁の間から生えた蒼の分厚い唇で、訛った言葉を使いひたすらお喋りしている。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。
「しかし、よく私だと分かったな」
「着地の時に下駄の音が聞こえた。ついでに言えば地震も来ず、レーチェが飛び出しても来ず、且つハリセンの音も無かった」
「相変わらず知恵の良く回る植物だ」
嫉妬の悪魔が感心して腕を組んだ拍子に、袂に仕舞った複数の包丁の刃が覗く。それらは丹念に研がれて刃こぼれ一つ無く、静かに次の獲物を待っていた。
「毎回実験に付き合わせて悪いな」
「いや、そうでもない」傍にある作業テーブルの上に置かれた、丈夫な竹の蒸し器を示す。「今日はそいつを届けに来る途中だった」
「初めて天邪鬼の薔薇が役に立ったの。昨日の宣言が効いたのかもしれないわ」
「ああ、今度失敗したら残らず燃やすと言った奴か」
その影に人智を超えた広大な樹木を孕む暴食の悪魔は微笑み、流石にあれでは頑張らない訳にはいかないからな、苦笑した。
「でも残念ながら、今日転移したのも二人ではなかったわ。焼却処分決定ね」
死刑宣告の瞬間、ザワザワザワ……好き勝手お喋りしていた水晶薔薇達が騒然となった。
「レーチェ、君が怒るのも全く以って当然だが、彼女達だって失敗したくてしている訳ではない……かもしれない、一パーセントぐらいは」最後は消え入りそうな声でフォローする。
愛するパートナーの言葉に元憤怒の悪魔、黒薔薇卿レイチェルは口元に青白い手を当てて皮肉気に微笑んだ。
「アガスティーは甘いわ。実験を初めて、今日できっかり百日。そろそろ審判を下す時間よ。ねえ、名月?」
「ええ。刈り取りならお任せ下さい」
娘の従順な乳母は当然とばかりに頷き、両袖に手を入れようとする。
「じゃ、じゃあニディア君達を呼ぶのは諦めて、普通に栽培すれば」
唯一の男性は尚も諦めず、同族の情状酌量を請う。
「こんなに喧しくて、しかも肥料を大量消費する迷惑千万な連中を?冗談じゃないわ。他の薔薇達を見て。栄養を盗られて以前より明らかにげっそりしてる」
「確かにそうだが……なら、せめて別の場所に植え替えたらどうだ。ああほら、王国の農場の近くとか」
どうにか処分を阻止しようとする彼は、ふと群生の一点に不自然な空白を見つけた。
「おや、誰かが引き抜いていったのか?」
質問に、女板前が細い顎へ手を当てた。
「そう言えば昨日、イエローの奴がヴェニット嬢にプレゼントだと意気揚々青い何かを振り回していたな。しかし、あの三男坊は知っての通り失せ物の王だ。今頃はとうに紛失しているに決まっている」
不具者はその場を覗き込んで観察する。スペース的に推測して、無くなったのは一輪のようだ。慌て者の黄色い坊やにしては、見事に根ごと持ち去っていた。
「家の庭にでも植えるつもりだったのか?何れにしろ抜かれた以上、そう長くは保たないな。可哀相だが危険性は少ないか」
そう結論付け、杖を突いてテーブルの隣へ歩み寄る。板前に断り、蒸し器の蓋を取った。
「プリン?」
白磁器の二つのカップ、そのココア色の中身を見て尋ねる。
「黒糖生地の中に小豆煮を入れてある。フィズのアイデアだ」
「ほう、それは美味そうだ」
期待の声に、彼女はやや軽蔑の目を向けた。
「あの子が考えたのだ、美味いに決まっているだろう?―――ではレイチェル様、私はそろそろ失礼致します」
「わざわざ届けてくれてありがとう。ゆっくり頂くわ」
女主人の感謝の言葉に女板前は一礼。そして袂から三冊の文庫本を取り出した。刃物と共に仕舞われていた筈だが、表面には切り傷一つ無い。まるで四次元収納だ。
「あ、済まない」
差し出された樹の化身が片手で受け取る。
「構わん、ついでだ。それは?」
「ああ、さっき読み終わったばかりだ。夕食の時にでも自分で返しておくよ。気を遣わせて済まない」
「そうか」
退出を見送った後、夫妻も蒸し器を持って温室を出、テラスへ戻る。
「コーヒーが良い?」
「ああ、そうだな。出来れば農場の豆で淹れた物を頼む。あれは何杯でも飲めるからな。皆もいれば誘えたんだが」
標高百万キロの雪山でスキーバカンス中の三人の使用人達を思いながら言う。
「そうね。座って待ってて」
しばらくの後、貴婦人が車椅子の座面にコーヒーのトレーを乗せて戻って来た。夫の隣まで押し、トレーごとテーブルに置く。
「お待たせ」
「ありがとう、レーチェ」
人界の物より数十倍素晴らしい香味を漂わせた二つのカップを互いの席へ。妙なるカカオの香りが拡散し、飲まない内からとても幸せな気分に誘われた。
「うん、相変わらず良い匂いだ」
「はい」
「ああ、ありがとう」
妻の差し出すプリンの乗ったスプーンを、彼は口を開けて自ら招いた。ぱくっ。




