何も知らない
六月の午後、国語の授業。
教室の窓から吹き込む風には、もうすぐ訪れる夏の湿り気と、校庭のグラウンドの草の匂いが混ざり合っていた。
黒板に向かって伸びる渡辺先生の白い腕は、今日も変わらず細く、美しい。チョークが黒板を叩く「コト、コト」という心地よいリズムが、昼下がりの眠気を誘う。
先生の目の下には相変わらず深いクマがあったが、そのハスキーな声はどこまでも穏やかで、静かだった。
「……さて、夏目漱石の『こころ』において、主人公である『私』は『先生』の過去を知りたがります。しかし、先生はなかなか自らの過去を語ろうとしない。なぜでしょうか」
先生は手にしていた擦り切れた文庫本を伏せ、教壇から生徒たちへと視線を巡らせた。
「人は、自らの記憶によって作られます。けれど同時に、人は『他者に見せたい自分』の記憶だけを選び取り、都合の悪い過去には静かに蓋をする。……記憶とは、自分を守るための城であり、同時に自分を閉じ込める檻でもあるのです」
先生の言葉は、まるで教室の空気を一瞬で塗り替えるような力を持っていた。
一番前の席で、ノートに几帳面な文字を走らせていた学級委員の黒瀬悠真が、すっと手を挙げた。
「先生。でも、過去を隠すことは、時に他者への裏切りになるんじゃないでしょうか。真実を知らないまま付き合うことは、本当の意味での信頼とは言えない気がします」
規則や正義を何よりも重んじる黒瀬らしい、真っ直ぐな意見だった。
渡辺先生は、ほんの少しだけ目尻を下げて微笑んだ。
「鋭い指摘ですね、黒瀬くん。……ですが、すべての真実を明かすことが、必ずしも相手を幸せにすると言えるでしょうか。知らない方が、傷つかずに済む真実もあるかもしれない」
先生のその問いに、教室の片隅で肘をついていた神崎蓮が、薄い唇の端をわずかに吊り上げた。神崎はいつも一人で文庫本を読んでいて、どこか世界全体を冷めた目で見ている男だ。
「どっちにしろ、人が誰かを理解した気になるなんて幻想ですよ」
神崎の低い声が響く。
「真実を知ろうが知るまいが、人間はいずれ死んで、記憶も消える。他人の内面なんて都合よく解釈されて終わりです。何をそんなに必死になって隠したり暴いたりする必要があるんですか」
「神崎、またそういう身も蓋もないこと言うなよー」
後ろの席から、ムードメーカーの三浦陽斗が冗談めかしてちゃかした。「先生! 俺は美味しい学食のメニューのことしか頭にありません!」と陽斗が続けると、教室にパラパラと笑い声が起きた。
「冗談ばっかり。陽斗は少しは真面目に考えなよ」
隣の席の桐谷莉子が、呆れたように陽斗の背中をペンでつつく。
そんな賑やかなやり取りの渦中で、僕はただ、自分の机の木目をじっと見つめていた。
(……知らない方が、傷つかずに済む真実)
先生の言葉が、胸の奥深くに重く沈み込んでいく。
あの日、父さんの書斎で知ってしまった、おぞましい裏金の記録、不倫の写真、そして渡辺先生の奥さんの死。
もし僕が何も知らなければ、今頃僕は、何の疑問も抱かずに「最高の父さん」を尊敬し、無邪気に警察官になる夢を語っていたのだろうか。父親の作られた優しさに守られたまま、幸せな「嘘」の中で生きていられたのだろうか。
ふと、隣の席に視線を遣る。
糸は静かにノートを取っていた。その横顔はいつも通り隙がなく、美しい。
旧校舎の階段で、僕の告白を黙って聞いてくれた親友。
『お前は何も悪くない。僕が、ついてるから』
そう言ってくれた糸の存在だけが、今の僕が壊れずに立っていられる唯一の足場だった。糸が隣にいてくれるから、僕は父親の罪という途方もない闇に飲み込まれずに済んでいる。
けれど――授業中、渡辺先生の視線がふっと、僕と糸の席に止まったのを、僕は見逃さなかった。
先生の細い切れ目の奥にある瞳が、何かを確かめるように、静かに、そして酷く哀しそうに僕たちを見つめていた。
「――では、今日の講義はここまでにしましょう。来週までに、教科書のP.42からP.50までを読んでおくように」
チャイムが鳴ると同時に、教室は一気にガヤガヤとした日常の騒がしさに戻っていった。
「凪、部活だろ? 行こうぜ」
糸がカバンを持ち上げ、僕の肩を軽く小突いた。
「……おう」
夕方の体育館。キュッ、キュッとバッシュが床を擦る音。ボールがネットを揺らす快音。汗の匂い。
昨日までと何一つ変わらないはずの日常。
けれど、僕たちは知っている。




