余白
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
部活の途中で渡辺先生に呼び出された僕は、国語科の提出物が入ったプラスチックケースを抱え、3階の奥にある国語準備室へと向かっていた。
トントン、とドアを叩く。
「渡辺先生、朝霧です。提出物を持ってきました」
「ああ、朝霧くん。どうぞ、入ってください」
静かな声に促されてドアを開けると、そこには独特の空間が広がっていた。
部屋の壁一面を埋め尽くす本棚には、夏目漱石や太宰治などの日本文学から、カント、ニーチェ、キルケゴールといった難解な西洋哲学の原書までが几帳面に並べられている。部屋の中には、古い紙の匂いと、少し甘い紅茶の香りが満ちていた。
「そこに置いておいてください。ありがとう」
デスクに向かっていた先生が振り返る。
黒いカーディガンの袖から覗く手首は、先日見かけた時よりもさらに細くなっているように見えた。デスクの隅には、小さな銀色のフレームに入った一枚の写真が置かれていた。そこに写っているのは、オーバーサイズのジャケットを着て、本を手に優しく微笑む、髪の長い知的な女性――渡辺先生の亡くなった奥さんだった。
「先生、本……すごくたくさんあるんですね」
僕が本棚に目をやると、先生は自嘲気味に目を細めた。
「ええ。言葉というものは不思議なものでね。どれだけ集めても、本当に伝えたい感情の『余白』を埋めることはできない。……だが、人はそれでも言葉を探し続けてしまうんだ」
先生は文庫本をそっと閉じると、僕をまっすぐに見つめた。
「朝霧くん。君は、今の私がどんな人間に見えるかい?」
「え……? 静かで、知的で、……生徒の話をよく聞いてくれる、すごい先生だと思います」
率直な感想を口にすると、先生はどこか切ないように、フッと息を漏らして笑った。
「そう見えるかい。……実はね、昔の私は今とは全く違う人間だったんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。若い頃の私は、もっとがさつで、うるさくて、直感だけで動くような人間だった。深く物事を考えることもなく、ただ毎日を賑やかに過ごしていた」
先生は写真立ての女性へ、愛おしむような視線を送った。
「彼女……妻と出会ってから、私の世界は変わったんだ。妻は今の私によく似ていた。静かで、哲学的で、本を愛し、言葉の奥にある人の心を大切にする人だった。……私はね、彼女を失ってから、無意識のうちに彼女の真似をするようになったんだよ。彼女が残した言葉を反芻し、彼女の視点で世界を見ようとするうちに……気づけば、私は『彼女のような人間』になっていた」
自分が失った愛する人の影を追ううちに、その人自身になってしまった男。
先生の言葉の重みに、僕は息を呑んだ。
父さんの罪によって奪われたのは、一人の女性の命だけではない。渡辺先生の元の人生そのものが、塗り替えられてしまったのだ。
「――先生。失礼します」
不意に、ドアが開いた。
入ってきたのは、同じクラスの神崎蓮だった。神崎は手に文庫本を持ったまま、僕と先生を冷ややかな目で見やった。
「神崎くん。どうしましたか?」
「図書室にない本があったので、先生の部屋ならあるかと思って。……邪魔でしたか」
「いいえ、構いませんよ。探している本は何ですか?」
「ショウペンハウエルです。『自殺について』」
神崎の口から出た直接的な本の名前に、部屋の空気があっと言う間に凍りついた。
けれど渡辺先生は眉一つ動かさず、「ああ、あの棚の二段目にありますよ」と静かに指をさした。
神崎は本を手にとると、パラパラとページをめくりながら、投げやりに呟いた。
「……先生は、人間って生きる意味があると思いますか」
「急な問いですね。神崎くんはどう思うのですか?」
「ないですよ、そんなもの」
神崎の目は、ガラス玉のように冷たかった。
「人は勝手に生まれて、苦しんで、勝手に死ぬだけだ。善意も正義も、結局は自分が気持ちよくなりたいだけの自己満足でしょう。誰かを助けるのも、助けた自分に酔いたいからだ。……生きていることに理由なんてない」
あまりにも乾いた神崎のニヒリズム。僕は思わず言葉を失ったけれど、先生は穏やかな眼差しを崩さなかった。
「……意味がないからこそ、人は理由を求めるのかもしれませんね」
先生は神崎を見つめ、静かに言った。
「世界に最初から意味など用意されていないとしても……人は何かを大切だと思い、何かのために傷つき、選んで行動することができる。たとえそれが自己満足や錯覚だとしても、その瞬間に生まれる感情まで偽物だとは、私には思えないのです」
神崎はフンと鼻を鳴らし、本を抱えて準備室を出ていこうとした。
ドアノブに手をかけた時、神崎は背中越しに言った。
「……先生だって、そうやって綺麗事を言っている自分を守りたいだけじゃないですか」
パタン、とドアが閉まる。
神崎が去った後の準備室には、鉛のように重い沈黙が残された。
渡辺先生は何も言わず、夕日に染まる窓の外をじっと見つめていた。その横顔には、教師としての静穏な仮面と、その裏側で渦巻くどろどろとした怨念との間で激しく引き裂かれる、凄惨な葛藤が浮かんでいた。
(……この少年は、あの朝霧の息子だ)
先生の内側で、狂おしい叫びが渦を巻いていたはずだ。
目の前にいる無知で無垢な少年を恐怖で突き崩したいという破壊衝動。だが同時に、何の罪もない教え子を己の復讐劇に巻き込もうとしている自らの醜悪さに対する、耐えがたい自己嫌悪。
『綺麗事』だと吐き捨てて去った神崎の言葉が、自らの打算を正確に射抜いていたからこそ、先生の胸の奥で、押さえつけていたはずの黒い澱みが溢れ出そうとしていた。
先生は静かに深く、胸の底から泥を吐き出すような息を吐き出した。
そしてゆっくりと振り向いたその視線は、もはや「優しい渡辺先生」のものではなかった。
「……朝霧くん。神崎くんの言う通り、私の言葉もまた綺麗事に過ぎないのかもしれないね」
先生はデスクの上の妻の写真に、慈しむように、けれど同時に爪を立てるかのように強く指先を触れさせた。その声のトーンが、急速に体温を失って低く冷ややかに沈んでいく。
「妻が殺されたあの夜……私の世界は完全に止まった。警察はろくに捜査もせず、不自然なほど素早く『自殺』として処理した。……私はね、妻の死の真相を知るためなら、自分の命も、他の誰の平和な日常も、すべて投げ打っても構わないと思っているんだ」
先生の口元に浮かんだのは、穏やかでありながらどこか狂気を孕んだ、酷く歪な笑みだった。
黒いカーディガンの胸元から覗く浅く荒い呼吸、病魔に冒された鉛色の肌、そしてその奥に潜む底知れない暗闇。
「本当の正義なんてどこにもない。あるのは、守りたいものと、奪われたものの怨嗟だけだ。……そう思わないかい、朝霧くん?」
その問いかけが部屋の空気を一瞬で氷点下まで引き下げ、僕の全身の血を凍りつかせた。
(逃げたい――)
頭の中で、悲鳴のような声が響く。
父さんが犯した隠蔽工作。先生の奥さんの命を奪い、この人をここまで無残に壊してしまった決定的な罪。
目の前にいる死神のような先生への恐怖。
けれどそれ以上に僕の心を狂わせたのは、「自分が一番尊敬していた父さんが、この悲劇の元凶なんだ」という、胃の底から競り上がってくる吐き気と絶望だった。
大好きな父さんを嫌いになれない自分への罪悪感。
壊れてしまった先生に対する、どうしようもない申し訳なさ。
胸の奥で大切なものが音を立てて砕け散り、感情の抑留が決壊した。
「……先生、僕は……っ」
呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が上下する。
喉の奥から掠れた声が漏れ出し、視界が滝のような涙で一瞬にして歪んだ。ぽろぽろと零れ落ちる温かい雫が、冷え切った僕の頬を濡らしていく。
同じ頃。
部活の用具を片付け終えた時雨糸は、静まり返った3階の廊下を一人歩いていた。
渡辺先生の体調が急速に悪化している気配を感じ取り、糸の神経はやすりで削られたように尖っていた。
(凪は……まだ戻ってないのか)
国語準備室の方へ視線を向けた、その時だった。
準備室のドアの隙間から、押し殺したような小さな嗚咽と、呼吸の乱れる音が聞こえてきた。
(……凪の声……?)
糸は反射的に脚を速め、準備室のドアの前に立ち止まった。
板一枚を隔てた向こう側から、渡辺先生の異質で低く重い声が漏れてくる。
『……妻が殺されたあの夜……』
『……真相を知るためなら、誰の平和な日常も、すべて投げ打っても構わない……』
――ドクン、と糸の心臓が不快な跳ね方をした。
指先が冷たく凍りつく。
先生が話しているのは、まさに7年前のあの事件のことだ。
そして先生の目の前で泣いているのは、事件の隠蔽に関わった警察幹部・朝霧誠一の息子である凪だ。
(まずい……! 先生は凪にどこまで話した!? 凪は、何かづいたのか……!?)
糸の脳内に、猛烈な焦燥と恐怖が吹き荒れた。
もし凪が真実に辿り着いてしまえば、自分たちの「平和な日常」は一瞬で終わる。
何より、自分が7年前の隠蔽工作を知りながら凪に近づき、あの黒いUSBメモリを隠し持っているという最悪の裏切りまでが、すべて暴かれてしまう。
(止めなきゃ……凪をこれ以上、あそこに居させちゃダメだ……!)
葛藤と焦りが限界を超え、糸は考えるより先にドアノブへ手をかけていた。
バタン!
静かな準備室に、叩きつけるような強い音が響き渡った。
「――そこまでにしてください、渡辺先生」
立っていたのは糸だった。
息を乱しながらも、その声は氷のように尖り、冷たく澄んでいた。
糸の全身からは、日頃の完璧で穏やかな秀才の面影が消え去り、むき出しの「牙」が覗いていた。
糸は迷うことなく、泣きじゃくる僕と渡辺先生の間に力任せに割り込んだ。
その背中で僕をすっぽりと隠すように庇い立て、渡辺先生を射抜くような鋭い視線で睨みつける。
「凪に……これ以上、何を話していたんですか」
その声には、親友を追い詰めた教師に対する本物の怒りが激しく燃え盛っていた。
けれど――僕の目の前にある糸の背中は、決して堂々としたヒーローのものではなかった。
糸の右手は制服のポケットの中で、爪が皮膚に食い込むほど狂おしく握りしめられ、微かに、けれど激しく震えていたのだ。
僕を守ろうとする激しい衝動。
けれどその裏には、「お前の父親も僕の父親も同罪だ」「僕はお前を騙している」という苛烈な罪悪感と、己の嘘を守るための身勝手な打算が、黒い泥のように蠢いている。
自分自身への嫌悪と恐怖に苛まれながら、糸は必死に虚勢を張り、先生へ牙を突き立てていた。
渡辺先生は、自分を庇うように立ちふさがった糸の震える背中と、その奥にある深い暗闇を静かに見つめた。
そして、すべての矛盾を理解したかのように、どこか哀しげに目を細めた。
「……やあ、時雨くん。……君もまた、大切なものを守るために必死なんだね」
先生の意図深げな言葉が響いた瞬間、糸の肩がぴくぐりと硬直した。




