親友
旧校舎の冷たい非常階段で、凪が膝を抱えて咽せび泣いていた。
その背中を叩くこともできず、僕はただ足元に落ちる雨粒の染みを見つめていた。
――朝霧誠一。
警察の幹部であり、誰からも慕われる、あの理想的な「父親」。彼が七年前の事件の実行犯であり、渡辺先生の人生を奪い去った張本人だという事実。凪の口から零れ落ちた言葉は、奇しくも、僕がずっと前から知っていた真実のピースと、音を立てて噛み合った。
そうだ。知っていた。
僕は最初から、知っていたんだ。
ポケットの中で、制服の布越しにスマートフォンが硬い感触を伝えてくる。その内部には、誰にも言えない秘密が保存されている。
数ヶ月前、実家の母親の書斎の奥深く、埃をかぶった古い木箱の中からそれを見つけた。中に入っていたのは、一通の封筒と、一本の黒い小型USB。封筒に添えられていた母の遺した手紙には、震えた文字でこう記されていた。
『これを友人の渡辺さんに渡してほしい。警察の人間が、私をいつ見張っているか分からない。時雨の家も、もう安全ではないから』
母は、七年前の事件の直後に病気で亡くなった。
幼い頃の僕には何のことか分からなかったけれど、好奇心からそのUSBを自宅のPCに挿し、再生したことがある。聞こえてきたのは、切羽詰まった女性の声――渡辺先生の妻の音声記録だった。
そこには、警察内部の不正組織の名前、裏金の流れ、そして――僕の父親である時雨宗一郎の名前が、鮮明に記録されていた。
父親は、直接手を下してはいない。けれど、捜査記録を改ざんし、隠蔽工作の指揮を執り、すべての証拠を闇に葬った。父にとってそれは「組織の秩序を守るための汚れ仕事」であり、何食わぬ顔で家庭に戻れば、優しい父親を演じてみせる男だった。
あの夜、コンビニの前で渡辺先生の苦しむ姿を見た時、僕は直感した。
あの人はすべてを知っている。あるいは、すべてを思い出しながら、復讐の機会を静かに伺っているのだと。
だから、僕は動いた。
父親の過去を探るため、そしてこの街の歪みの中心にいる「朝霧家」の情報を得るために、僕はその息子である朝霧凪に近づいた。
それが、僕の最初の「意図」だったはずだ。
『――最初は、目的があった』
冷徹な計算だった。情報屋の真似事のように、凪の笑顔の裏側を測り、父親の動向を窺い、いつかこの腐った警察組織を内側から崩壊させるための駒として、凪を利用するつもりだった。
なのに。
グラウンドで泥だらけになってボールを追いかけ、バカみたいに真っ直ぐな瞳で僕の名前を呼ぶ凪と過ごすうちに、その「計算」は音を立てて狂っていった。
計算外だったのは、凪が想像以上に眩しすぎたことだ。
損得勘定で動く僕の冷たい内側に、凪のその体温が少しずつ染み込んで、いつしか「利用している」という免罪符すら、僕自身の心を抉る毒に変わっていた。
――今、目の前で泣いているこいつの顔を見ていると、胸の奥が引き裂かれるように痛む。
これが友情なのだろうか。あるいは、もっと歪んだ、名前のない独占欲なのだろうか。どちらでもいい。ただ一つ確かなのは、僕はもう、あの頃の冷酷な自分には戻れないということだ。
「……糸」
掠れた声で、凪が顔を上げた。
赤く腫れ上がった瞳に、すがるような光が宿っている。僕を信頼しきっている、そのバカみたいに純粋な眼差しが、今の僕には何よりも残酷だった。
「なぁ、俺、どうすればいい……? 父さんのこと、もう信じられないよ。でも、先生にあんなことしたなんて……許せるわけないだろ……っ」
凪の手が、僕の制服の裾をぎゅっと掴んだ。
その細い指の震えが、皮膚越しに伝わってくる。
ここで全てを話すべきなのだろうか。
「僕の父親も、隠蔽に関わっていたんだ」と。
「僕のポケットには、先生の奥さんが残したUSBがあるんだ」と。
そう言えば、楽になるかもしれない。二人で一緒に重荷を背負えるかもしれない。
けれど、言葉が喉の奥で張り付いて出なかった。
もしそれを言ったら、凪は僕のことも「父の犯罪を隠した共犯者の息子」として見るだろう。僕が最初に彼に近づいたのが「目的のためだった」と知ったら、今のこの温かい繋がりすら、完全に消え失せてしまうだろう。
それは、今の僕にとって、父親の犯罪を知ることよりも遥かに耐え難い恐怖だった。
だから、僕は嘘をつく。
いや、嘘ではない。ただ、もっとも残酷な「真実の半分」を飲み込むのだ。
「……大丈夫だ、凪」
僕はできる限り穏やかに、けれど冷たくならないように注意して、震える凪の肩にそっと手を置いた。
「お前は何も悪くない。お前の父親がしたことと、お前自身は関係ないよ」
「でも……っ」
「大丈夫だ」
僕は繰り返した。自分に言い聞かせるように、その声を凪の心に染み込ませるように。
「僕が、ついてるから」
その言葉が、どれほど無責任で、どれほど身勝手なものか、僕自身が一番よく分かっていた。
僕は凪を救いたい。けれど同時に、凪を失いたくないがために、自分の罪と父親の闇をこの胸の奥底に押し込め続ける。
冷たい雨の音が、僕たちの周囲を再び完全に隔てていく。




