偽り
翌々日の夜、玄関の鍵が回る音がした時、僕の背筋は一瞬で総毛立った。
「ただいま。いやあ、今回の出張は長引いてしまったよ」
リビングに入ってきた父さんは、ネクタイを少し緩めながら、いつも通りの、あの目尻に優しいシワを刻んだ微笑みを浮かべていた。出張土産の地方の銘菓が入った紙袋を、テーブルにそっと置く。
「おかえりなさい、あなた。お疲れ様でした」
「ああ、凪も起きていたか。……そうだ、この前言っていた警察学校の資料だが、私の書斎の棚にいくつかまとめておいたんだ。もう見つかったかい?」
父さんのその言葉が、僕の鼓膜を容赦なく叩いた。
あの不倫写真。裏金のデータ。そして、渡辺先生の奥さんを殺し、罪をなすりつけた時の、あの冷徹な音声。それら全てを隠し持っている男が、今、僕の前で「最高の父親」の顔をして笑っている。
「……ううん。まだ、ちゃんと探してないんだ。ありがと、父さん。明日、見てみるよ」
自分でも驚くほど、声は震えなかった。いつも通りの、少し気恥ずかしそうな「息子の声」が出せた。バスケの試合で鍛えられたポーカーフェイスが、こんなところで役に立つなんて皮肉だった。
「そうか。焦ることはないさ。凪ならきっと、私なんかよりずっと優秀な警察官になれるよ」
父さんは僕の肩をぽんと叩いた。その手の温もりが、今は猛烈に気持ち悪かった。鳥肌が立つのを必死に堪え、「うん」とだけ微笑み返して、僕は逃げるように自分の部屋へと階段を駆け上がった。
バタン、とドアを閉め、鍵をかける。
その瞬間、全身の力が抜けて床に崩れ落ちた。
「……っ、う、あ……」
叫び出したい衝動を抑えるために、自分の腕を思い切り噛み締めた。
涙が、堰を切ったように溢れ出てくる。声を押し殺して、胸を掻きむしりながら、僕は一人で泣いた。
脳裏をぐるぐると駆け巡るのは、優しかった父さんとの思い出ばかりだった。キャッチボールをしたこと。バスケの試合でシュートを決めた時、誰よりも大きな拍手をくれたこと。「お前は俺の自慢の息子だ」と言ってくれたこと。
その全てが、他人の血と涙を踏みにじって作られた、おぞましい砂上の楼閣だった。
泣いて、泣いて、夜が明ける頃には、僕の心の中から「父さんへの尊敬」なんてものは一欠片も残っていなかった。あとに残ったのは、へどが出るほどの激しい嫌悪感と、拒絶反応だけだった。
――次の日の朝。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、酷いものだった。
一晩中泣き明かしたせいで、目の周りは赤く腫れ、その下には渡辺先生のそれによく似た、どす黒いクマがべっとりと張り付いていた。
学校へ行っても、周囲の声が全く頭に入ってこない。
教室の自分の席に座り、ただ机の木目をじっと見つめていた。その時、頭上から影が落ちた。
「……凪」
糸だった。彼は僕の前に立つと、いつもなら見せないような、鋭く、そしてひどく動揺した目を僕に向けていた。
「お前、その顔……どうしたんだよ。何があった」
糸にだけは、一瞬でバレた。
だけど、言えるはずがなかった。「僕の父親が、お前が調べてくれた渡辺先生の人生を狂わせた犯人だった」なんて。口を開こうとしても、喉が固く閉じてしまって言葉が出てこない。僕が目に見えて動揺し、視線を泳がせると、糸の端正な顔がこれまでにないほど強張った。
いつも冷静沈着で、他人のことなんてどこか突き放して見ているあの糸が、明らかに狼狽している。こんな糸を見るのは、出会ってから初めてだった。
「……俺が、余計なことを言ったせいか?」
糸の声が、微かに震えていた。
「先生の余命のこと、俺が勝手に調べて話したから……お前、それでショック受けて……」
糸は自分の言葉に耐えかねたように、僕の制服の袖を掴んだ。
「ちょっと来い」
彼は僕を半ば強引に立たせると、使われていない旧校舎の非常階段の踊り場へと連れて行った。人気のない、薄暗い空間。雨上がりの湿った空気が満ちるその場所で、糸は僕を壁に囲い込むようにして、絞り出すような声で謝った。
「ごめん。悪かった。俺が、あんなこと言わなきゃよかったんだ。凪、お前がそんな顔するくらいなら、俺――」
親友の、見たこともない必死な姿。自分を責めて傷ついている糸の言葉を聞いているうちに、僕の胸の奥で、張り詰めていた堤防が完全に決壊した。
「違うんだ……っ、違うんだよ、糸……!」
ポロポロと、また涙が溢れて止まらなくなる。僕は顔を覆いながら、しゃがみ込み、ぽつり、ぽつりと、掠れた声で本当のことを話し始めた。
「先生の病気のことだけじゃないんだ……。俺、あの後、父さんの書斎に入って……パソコンの、秘密のフォルダを見ちゃったんだよ……」
「おじさんの、フォルダ……?」
「……不倫の写真とか、裏金とか、そんなのがいっぱい入ってて……。それだけじゃなくて、古い事件の資料があったんだ。若い女の人が、お腹を刺されて死んでる写真……。その人の名前、渡辺だった。先生の、奥さんだったんだよ……」
糸が息を呑む音が、狭い踊り場に響いた。
「父さんが……俺の優しい父さんが、その人を殺したんだ。それで、全部の罪を渡辺先生になすりつけて、自殺ってことにしたんだよ……。録音データがあった、父さんの声で、間違いないんだ……。先生がクマを作って、死に急ぐみたいにしてるのは……全部、俺の父さんのせいだったんだ……っ」
泣きじゃくりながら、血を吐くように真実を告白する僕の言葉を、糸は言葉を失ったまま、ただ静かに受け止めていた。




