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二つの空白

 あのコンビニの夜から、糸の様子はどこかおかしかった。


 部活中の集中力は相変わらず凄まじいものの、休憩時間や放課後、ふとした瞬間にスマホの画面を険しい目で見つめていることが増えた。僕が「何見てんだよ」と覗き込もうとすると、いつも素早く画面を伏せて「なんでもない」とはぐらかされる。


 そんな糸の「秘密」に気づいてしまったのは、ある雨の日の放課後だった。


 遠征試合の書類を職員室に届けるようキャプテンに頼まれ、僕は一人で校舎を歩いていた。その途中、進路資料室の薄暗い片隅に、一人でノートPCに向かっている糸の背中を見つけたのだ。


 いつもなら「何サボってんだよ」と後ろから驚かせるところだけど、彼の背中から漂うただ事ではない空気に、僕は思わず足を止めた。


 画面に映っていたのは、大学の進路情報なんかじゃなかった。


 いくつかの医療系の論文サイト、そして――渡辺先生が夜に飲んでいた、あのアルミシートの薬の画像。


「……糸?」


「っ!?」


 僕の声に、糸が弾かれたように振り返った。いつも冷静な彼の端正な顔が、一瞬だけ見たこともないほど激しく動揺した。彼は慌ててブラウザを閉じようとしたけれど、僕の目はその前に、画面の端に表示されていた検索履歴を捉えていた。


『渡辺晴哉』『ステージ4』『抗がん剤』『生存率』――。


「お前、何調べて……それ、渡辺先生のことか?」


 僕の問い詰めるような声に、資料室の重い空気がしんと静まり返る。窓を叩く激しい雨の音だけが、やけに大きく響いていた。


 糸は深く、諦めたようなため息をつくと、椅子の背もたれに身体を預けた。


「……本当、凪はこういう時だけ無駄に勘が鋭いな」


「隠すなよ。何なんだよ、これ。先生が病気ってこと?」


 糸は前髪をくしゃりと掻き上げ、少し視線を落とした。


「あの夜の薬が気になって、ちょっと調べたんだよ。俺の親戚に薬剤師がいてさ……あのシートの形状と先生の症状を話したら、特殊な抗がん剤の可能性が高いって言われた。そこから、先生の過去の勤務評定や、教育委員会のデータベースを少し覗いたんだ。先生、今年の初めに長期間の病気休暇を取ってるだろ。その時の診断書のバックアップデータが、暗号化もされずに古いサーバーに残ってた」


「……は? 覗いたって、お前それハッキングじゃねえか。何やってんだよ」


「ハッキングっていうか、セキュリティの甘いポートを叩いてSQLインジェクションを試しただけ。大したことしてない。……それより、結果を聞けよ」


 糸は淡々と、けれど残酷な事実を口にした。


「先生の病名は膵臓癌。見つかった時にはすでに手遅れのステージ4だ。休職期間を終えて復職したのは、治療のためじゃない。もう、治療をやめたんだよ。……持って、あと一年。下手をすれば数ヶ月かもしれない」


 頭を強く殴られたような衝撃だった。


 あの一目で誰もが魅了されるような美しい先生が。いつも目の下に深いクマを作って、「時間が足りない」と儚く笑っていたあの先生が、もうすぐ死んでしまう?


「凪」


 糸が真っ直ぐに僕の目を見た。その切れ長の瞳には、親友を繋ぎ止めようとする強い意志が宿っていた。


「だから言ったんだ、深入りするなって。あの人はもう、僕たちとは違う世界に片足を突っ込んでる。これ以上関わったら、お前が傷つくだけだ」


「……あ、ああ。分かってる」


 僕は乾いた声でそう答えるのが精一杯だった。


 その日の夜、僕の心は激しく波立っていた。


 塾の帰り、バケツをひっくり返したような大雨の中を帰宅すると、家の中は妙に静まり返っていた。


「ただいま……」


「おかえり、凪。お父さんね、急な出張で今夜は帰らないのよ。ご飯は冷蔵庫にあるから温めて食べてね」


 母さんはリビングで少し疲れたようにテレビを見ていた。


 自室へ向かおうと階段を上る途中、2階の突き当たりにある父さんの書斎のドアが、ほんの少しだけ開いているのが見えた。いつもはきっちり閉められている、父さんの聖域。


『よし、それなら今度、私が若い頃に読んでいた法学の参考書や、警察学校の資料をいくつか教えてあげよう』


 数日前の、父さんの優しい声が脳裏をよぎった。


 渡辺先生の余命を知ってしまったショックから逃げるように、僕は「父さんのような立派な警察官になるための何か」を無性に求めていた。今なら、父さんが大切にしている資料を、少しだけ見せてもらえるかもしれない。


 吸い込まれるように、僕は静まり返った書斎へと足を踏み入れた。


 重厚な本棚に囲まれたデスクの上には、父さんの仕事用のノートパソコンが置かれていた。スリープモードのまま、かすかに青いランプが点滅している。普段なら絶対に触らない。だけど、その時の僕はどこか焦燥感に駆られていた。


 マウスを少し動かすと、画面がパッと明るくなった。


 画面には、警察の内部データベースと思われるフォルダがいくつか並んでいる。採用基準や法学の文字を探してクリックしていくうちに、僕はデスクトップの隅にある、一つだけ『暗号化』された不可解なフォルダに目を留めた。


 フォルダ名は、英語と数字の羅列。


 なぜか気になってクリックすると、パスワードの入力を求められた。


 僕は少し考えて、僕の誕生日、それから母さんの誕生日を入れたけれどエラーになる。最後に、朝霧家の「家を建てた記念日」――父さんがいつも大切にしている数字を入力した。


 カチリ、と小さな音がして、フォルダが開いた。


 画面に広がった光景に、僕は息を呑んだ。


 そこに並んでいたのは、警察学校の資料なんかじゃなかった。それは、僕の知る「優しくて立派な父親」の姿を、根底から破壊する生々しい闇の記録だった。


 最初に出てきたのは、複数の女性との不倫を裏付ける写真の数々だった。


 ホテルの出入り口で、見知らぬ若い女性の腰に手を回して卑猥に笑う父さんの顔。信じられないことに、相手は一人だけじゃなかった。中には、警察内部の部下と思われる女性や、派手なドレスを着たキャバクラの女たちと、高級外車のシートでだらしなく抱き合っている写真まであった。いつも家で母さんに微笑みかけているあの顔とは、全く別の、欲にまみれた男の顔がそこにあった。


 スクロールする手が震える。


 次に出てきたのは、エクセルのスプレッドシートだった。


 そこには、莫大な金額の数字が、出所不明の『裏金』として記録されていた。押収された違法薬物の密売組織から流れた、数千万単位の賄賂。捜査費の横領。


『〇月〇日 〇〇より受領、〇〇口座へ分散』


 父さんの几帳面な文字で、金を横取りし、複数の隠し口座へロンダリングしていく詳細な手順が記されていた。


 そして――フォルダの最深部にあった、一つの音声ファイルと、現場写真。


 サムネイルに表示されたのは、血の海に倒れる若い女性の姿だった。


 胸元を無残に切り裂かれ、虚ろな目で天井を見つめている。その横には、凶器と思われる血濡れた包丁。


 資料のタイトルには、『渡辺〇〇(旧姓:〇〇)刺殺事件に関する内部報告』とあった。


 恐る恐る音声ファイルを再生する。スピーカーから流れてきたのは、酷く狼狽した、けれど間違いなく父さんの声だった。


『……おい、どうするんだこれ。死んでるぞ。あの女、俺たちの裏金の証拠を掴んで、マスコミに売ろうとしやがった。だから、脅すだけのつもりだったんだ……!』


『朝霧幹部、落ち着いてください。幸い、この部屋の第一発見者はあの女の夫だ。学校の教師をやってる、渡辺って男ですよ。……あいつに全部、なすりつけましょう。現場の指紋を拭き取って、あいつの包丁に偽装すれば、警察の身内なら自殺、あるいは無理心中として処理できます』


『……あ、あいつの……夫の……そうか。渡辺だな。すぐにやれ。鑑識と捜査一課の連中には、俺から直接圧力をかける。この事件は、渡辺の妻が精神を病んだ末の「自殺」だ。いいな?』


 スピーカーから流れる、冷徹な隠蔽の算段。


 添付されていた当時の遺族の調書には、まだ20代前半の、今よりも少しだけ肉付きの良い、けれど見紛うはずもない――渡辺晴哉先生が、警察の取調室で号泣しながら妻の無実を訴えている写真が映し出されていた。


 心臓が、耳の奥でドクンドクンと狂ったように脈打ち始める。


「え……? 嘘だろ……父さんが、殺して……先生になすりつけた……?」


 画面に映る「朝霧誠一」の冷徹な犯罪記録と、僕の知る「優しい父さん」の笑顔が、頭の中で激しく交錯する。


 吐き気がした。僕がこれまで送ってきた「幸せな家族」の日常は、この血と金と、一人の美しい教師の人生を徹底的に踏みにじった上に成り立つ、最悪の偽物だったのだ。


 外の雷鳴が、窓を大きく揺らした。


 僕の知らないところで、世界はとっくに壊れていた。


 渡辺先生の削られていく命と、僕の父親が犯した、あまりにも重い罪の引き鉄。その二つの濁流が、今、僕の目の前で完全に交わろうとしていた。

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