落日のこころ
その人が教壇に立つだけで、西日の差し込む退屈な国語の教室は、まるで映画のスクリーンのように変貌した。
渡辺晴哉先生。
それが、僕たちの学校の「美しすぎる文学教師」の名前だ。
先生が教科書を持つ指先は、驚くほど細く、白い。
体躯はどこまでも華奢で、仕立ての良いシャツの肩の線は、少し風が吹けば折れてしまいそうなほど繊細に見えた。けれど何より生徒たちの目を釘付けにするのは、その圧倒的な造形美だ。
すっきりと通った高い鼻筋に、冷ややかで、けれどどこか扇情的な細い切れ目の瞳。現実離れした中性的な美貌は、彼が髪を小さくかき上げるたびに、廊下側の女子生徒たちの間で小さな吐息が漏れるほどだった。学校中の誰もが、一目で彼に魅了されてしまう。
けれど、完璧な美を誇るその顔には、いつも不釣り合いな「影」があった。
白い肌に、べっとりと張り付いたような深い、深い、目の下のクマ。
睡眠不足というよりは、何か得体の知れない病に内側から蝕まれているかのような、色濃い漆黒の陰影だ。
「……では、今日の講義はここまでにしましょう」
低く、どこかハスキーで心地よい声が教室に響く。
先生は長い指で、教壇に置かれた一冊の文庫本をそっと撫でた。擦り切れた背表紙には、夏目漱石『こころ』と書かれている。先生がいつも肌身離さず持ち歩いている、お気に入りの本だ。
「先生、またクマが酷くなってますよ。ちゃんと寝てます?」
教壇にノートを提出しに行きながら、僕は努めて明るい声で話しかけた。
朝霧凪。それが僕の名前だ。汗臭いバスケ部に所属し、毎日オレンジ色のボールを追いかけている僕にとって、渡辺先生の持つ静謐で知的な空気は、どこか遠い世界の、けれど妙に惹かれるものだった。
先生はゆっくりと視線を僕へ動かした。細い切れ目の奥にある瞳が、一瞬だけ柔らかく細められる。
「ああ、朝霧くん。心配してくれてありがとう。……少しね、夜に考えることが多くてね」
「哲学ですか? 先生、いっつも難しい本読んでますもんね」
「哲学、か。そうだね、それもあるかもしれない。……私は少し、時間が足りなくてね」
時間が足りない。
先生はそう言って、自嘲気味に微笑んだ。その笑顔があまりにも儚く、そして美しかったから、僕はそれ以上言葉を続けることができなかった。
夕方の体育館は、昼間の熱気が残っていてひどく蒸し暑かった。
キュッ、キュッとバッシュが床を擦る音が響く。僕は思考を切り替えるように、激しくボールを突き、ゴールへ向かって跳んだ。綺麗な弧を描いたボールが、吸い込まれるようにネットを揺らす。
「ナイスシュー、凪!」
「おう、サンキュー」
汗を拭いながら、ドリンクボトルに手を伸ばす。
夕陽が沈みかける体育館の窓から、ふと校舎の方を見上げた。3階の国語準備室の窓辺に、細い人影が立っているのが見えた。渡辺先生だ。先生は、燃えるような赤に染まる夕焼け空を、ただじっと見つめていた。
部活が終わる頃には、空はすっかり濃い群青色に染まっていた。
自転車のペダルを漕ぎながら、僕は家路を急ぐ。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、出迎えてくれたのは、香ばしい出汁と夕飯の焦げた醤油の匂い、それからキッチンから聞こえる規則正しい包丁の音だった。
「お帰り、凪。ずいぶん遅かったじゃない。また居残り練習?」
エプロン姿で振り返った母さんは、少し眉をひそめて僕を見た。
朝霧家の母さんは、少し厳しい。身だしなみや時間、日頃の態度には人一倍うるさく、僕が少しでもだらしない格好をしているとすぐに小言が飛んでくる。
「悪りぃ。ちょっとシュート練習が長引いてさ」
「高校生の本分は勉強でしょ。部活ばかりにうつつを抜かして、成績が落ちたら承知しないからね。ほら、早く制服を着替えて、手を洗ってきなさい」
「はいはい、分かってますよ」
ぶつぶつと言いながら階段を上ろうとしたその時、奥の居間のドアが開いた。
「いいじゃないか。凪がそれだけ熱中できるものがあるのは、素晴らしいことだよ」
穏やかな声と共に姿を現したのは、父さん――朝霧誠一だった。
父さんは僕を見ると、目尻に優しいシワを刻んで微笑んだ。がっしりとした体格に、どこか包容力を感じさせる温厚な佇まい。
「お父さんは凪を甘やかしすぎです。この子は言っておかないと、すぐ調子に乗るんですから」
「ははは。まあ、男の子だからな。それより凪、今日の練習はどうだった? 調子は上がっているか?」
「うん。最後のスリーポイント、かなり感覚が良かったよ」
「そうか、それは楽しみだな。次の大会は必ず応援に行くからな」
父さんのその言葉だけで、部活の疲れなんて一気に吹き飛んでしまう。
僕にとって、父さんは最高の父親であり、それと同時に「男としての理想像」だった。
県警の幹部という重い責任ある立場にありながら、家に帰ればいつも穏やかで、僕や母さんの話をじっくりと聞いてくれる。正義感が強く、誰からも信頼される立派な警察官。
夕食のテーブルは、いつも通り賑やかだった。
母さんの作った肉じゃがを口に運びながら、僕は父さんの仕事の話を聞くのが好きだった。
「父さん、最近の仕事は忙しいの?」
「まあ、それなりにな。今は新しい防犯システムの導入で、書類仕事が多くてね」
「へえ……。ねえ父さん、俺さ、やっぱり将来は父さんみたいな警察官になりたいんだ。大学の法学部とか、今のうちから調べておいた方がいいかな?」
僕がそう言うと、父さんは一瞬だけ箸を止め、それから本当に嬉しそうに目を細めた。
「凪が、私と同じ道を……そうか。それは、本当に嬉しいな」
「ちょっと、凪。気が早いわよ。まずは目の前の定期テストをクリアしてから言いなさい」
母さんは呆れたようにため息をついたけれど、その口元はどこか誇らしげに緩んでいた。
「よし、それなら今度、私が若い頃に読んでいた法学の参考書や、警察学校の資料をいくつか教えてあげよう。凪の参考になるかもしれない」
「本当!? ありがとう、父さん!」
リビングに広がる、弾んだ笑い声。
厳しくも愛情深い母さんと、どこまでも優しく、頼りがいのある父さん。
僕はこの温かい家が大好きだったし、この幸せな日常が、これから先もずっと、当たり前に続いていくのだと信じて疑わなかった。
お父さんの書斎に足を踏み入れることになるのは、それからしばらく後のことだ。
それまでの間、僕の日常は相変わらずオレンジ色のボールと、それから、一人の親友を中心に回っていた。
「あー、死ぬ。今日のミニゲーム、外周の後のあれは完全に殺しにきてたわ」
「大袈裟だな、凪。ただのシャトルランだろ」
部活終わり、すっかり夜の空気に包まれたコンビニの駐車場。
自転車の荷台に腰掛け、パキッとソーダ味のチューペットを二つに割って僕に差し出してきたのは、時雨糸だった。
糸は僕と同じバスケ部の同級生で、ハッキリ言って、学校中で知らない奴はいない。
色素の薄いサラサラの髪に、どこか憂いを帯びた切れ長の目。渡辺先生が「大人の退廃的な美」なら、糸は「少年期の奇跡」みたいな圧倒的なビジュアルをしていた。しかも勉強は常に学年トップクラスで、バスケをやらせれば一歩目のドライブが誰も追いつけないほど速い。神様は二物も三物も与えすぎだと思う。
「いいよなー、糸は。今日も隣のコートの女子バレー部、みんなお前のこと見てたぞ。差し入れのスポーツドリンク、また糸の分だけ高級なの混ざってたし。羨ましすぎて禿げそう」
「……そう? 凪の気のせいじゃないか」
糸は半分になったアイスを口に咥え、ふいっと視線を逸らした。
いつもこうだ。糸は自分がどれだけモテるか、どれだけ周囲の目を引いているかに恐ろしく無頓着だった。
いや、無頓着なのは僕の方なのだということに、当時の僕は全く気づいていなかった。
実際には、部活終わりに体育館の裏で「朝霧くんに渡してください」と女子から手紙を託されているのは大抵が糸だったし、糸はそれを「あ、うん、分かった」と受け取った後、凪にバレないようにそっと自分の鞄の奥にしまい込んでいた。凪が「自分は汗臭いだけのモテないバスケ馬鹿だ」と思い込んでくれている方が、糸にとっては色々と都合が良かったのだが――そんな彼の小さな『意図』を、僕は微塵も疑っていなかった。
「はぁ、俺も一回くらい『朝霧くん、これ……』とか言われて女子から手紙もらってみたいわ」
「凪は今のままでいいよ。余計なことに気を取られたら、シュートフォームが崩れる」
「冷てえな! ちょっとくらい夢見させてくれよ」
そんな他愛もないやり取りをして、僕がガハガハと笑っていた、その時だった。
コンビニの前の大通りを、一台の古びたセダンがゆっくりと通り過ぎ、すぐ先の街路樹の影にハザードランプを点滅させて停車した。
運転席から降りてきた人影を見て、僕と糸の言葉が同時に止まる。
街灯の白い光に照らされたのは、見紛うはずもない、渡辺先生だった。
私服の黒いスプリングコートを羽織った先生は、昼間の教壇での姿よりも、さらに一回り華奢で小さく見えた。夜の闇に溶けてしまいそうなほど白い横顔。
けれど、先生の様子は明らかに奇妙だった。
「……先生?」
僕が小さく声を漏らすと、糸がすかさず僕の制服の袖をグッと引っ張り、自分の自転車の影に僕を隠すようにしゃがみ込んだ。
「シーッ、静かに。……様子がおかしい」
糸の低い囁き声に従って、僕たちはコンビニの軒下、自販機の隙間からこっそりと先生の姿を盗み見た。
先生は僕たちの視線に全く気づいていない。
車のドアに片手を突き、まるで激しい目眩に耐えるように、深く頭を垂れていた。もう片方の手は、しっかりと自分の胸元を押さえている。苦しそうに肩が上下し、細い喉が小さく喘ぐように動いていた。
先生は震える手でコートのポケットを探ると、小さなアルミのシートを取り出した。
そこから押し出された数錠の錠剤を、水もなしにそのまま口に放り込む。
喉を鳴らしてそれを飲み込んだ先生は、しばらくそのまま目を閉じ、荒い呼吸が整うのを待っていた。街灯に照らされたその顔は、昼間よりもずっと色濃いクマに覆われ、まるで死人のように青白かった。
「……何の薬、かな」
糸が、いつになく真剣な、どこか冷徹な目をして呟いた。
「分かんない。でも、ものすごく体調悪そうだった……。先生、いつもクマが凄いし、やっぱりどこか身体が悪いのかな。大丈夫かな、俺、声かけてみようか……」
「やめとけ」
立ち上がろうとした僕の腕を、糸が強い力で制した。
「見られたくないんだよ、きっと。あの人、プライド高そうだし。」
糸は言葉を切り、街路樹の影でようやく呼吸を落ち着かせ、再び車に乗り込んでいく渡辺先生の背中をじっと見つめていた。




