04:リリ
期待していたわけじゃない。
「用意させるわ」
そう言っていたのは、セレネのほうだ。
それなのに、あれから二週間経った。貴族のお嬢様だし。私みたいな平民の食堂店員との約束なんて、忘れていても不思議じゃない。ましてや、現代日本みたいに連絡先を交換したわけでもない。口先だけの言葉なら、言うなっつーの。
そう思いながら、私は今日も食堂で働いていた。
「リリー、そこの皿お願い!」
「はい!」
「あと、こっちの野菜も切っておいて!」
「はいはい!」
「それが終わったら床も頼むよ!」
「はいはいはい!」
朝からずっとこんな感じだ。使い古した木皿を冷たい水で洗い、硬い根菜を刃こぼれした包丁で刻み、焦げついた鉄鍋を磨く。石造りの狭い店内には、煮込み料理の甘辛い匂いと、大勢の男たちの汗、煙草の煙、そして湿った土の匂いが充満している。
「リリー、これ持ってって!」
「……」
「戻ったらこっち、聞こえてんのかい!?」
「はい!!」
汗で前髪が額に貼りつき、腕は雑巾絞りと皿洗いでパンパンだ。
……私、十五歳なんだけどな。
前世の記憶がうっすらある身としては、ふと思ってしまう。十五歳といえば、制服を着て、放課後におしゃれなカフェで集まって、映える飲み物片手に恋バナをしている頃じゃないのだろうか。
私の現実はどうだ。甘い恋どころか、仕込みのタマネギで目が痛くて涙を流す毎日って、嫌になる。
「リリー、ぼーっとしてないで!」
「してません!」
ようやく昼のピークが過ぎ、女将さんから「今日はここまで」と声がかかった。
「お疲れ様。悪いね、今日は忙しくて、賄いが残らなかったわねえ」
「あ……大丈夫です。家に帰ればパンくらいありますから」
その日の給料として、使い古されてフチの丸くなった銅貨を数枚受け取る。手のひらに伝わる金属の冷たさと重み。これで家にお金を入れて、残りで足りなくなってきた塩でも買おうか。
お菓子、食べたかったな……。
食堂を出ると、路地の空気は少しだけひんやりとしていた。馬のフンと乾いた泥のにおいが混ざる街道を、疲れた足取りで歩いていた。
「もし、」
声をかけられた。
――うわ、なに、この人。
そこに立っていたのは、五十代半ばほどの初老の男だった。
背筋が定規を入れたみたいにまっすぐ伸びている。髪は一筋の狂いもなく撫でつけられ、仕立ての良い上着にはシワひとつない。
この街特有の泥やゴミの臭いを一切まとっておらず、ほのかに石鹸の香りもする。磨き上げられた革靴は、泥道に立っているのが信じられないほどピカピカに光っていた。
一応辺りを見渡してみた、男の周囲には私しかいない。
「……私ですか?」
「リリ様でございますね。主家からの使いで参りました」
男が深々と頭を下げる。その動作が洗練されていて、逆に鳥肌が立った。蛇に睨まれたカエルみたいに、私の足がすくむ。
男が静かに上着の内ポケットに手を伸ばした瞬間、私は思わず半歩後ずさった。心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
「あの……私、あなたのこと知らないんですけど」
「……ごもっともでございます」
男は表情ひとつ変えず、すっと手を引いた。
静かな立ち振る舞い。無理やり連れていこうとしないのが、余計に怖い。
「突然お声をかければ、警戒なさるのも当然。少々お待ちくださいませ」
男が優雅に向かった先には、一台の馬車が停まっていた。
……いやいやいや、待って。おかしいって。なんでこんな下町にあんな高そうな馬車が停まってんのよ。
黒塗りの車体は光を反射していて、金色の意匠が施されている。繋がれている二頭の馬は毛並みがツヤツヤで、私より良い物食べてるってわかる。
そして何より、馬車の周囲に立っている大柄な男たち。
腰に剣を差し、鋭い視線を周囲に走らせている。本物の兵士だ。
――無理無理無理! 怖すぎる!
油の匂いをまとったエプロン姿で、洗剤で手が荒れまくっている平民の私が近寄っていい世界じゃない。
それに、前世の防犯知識が脳内で警報を鳴らしっぱなしだ。
『知らない人についていかない』『知らない車(馬車)に乗らない』。異世界なんて法も警察もガバガバなんだから、拉致されたら終わりじゃん。奴隷市場に売られたりしたらどうするの!?
恐怖で逃げ出そうとした、その時。
ギィ……と木製独特の音を立てて馬車の扉が開き、中からふわりと甘い花の香りが漂ってきた。
「リリ」
引き締められた空気の中に、聞き覚えのある声。車内から覗いたのは、美しい金髪の女。セレネだった。
「……あ」
本物だ。バクバクしていた心臓が、少しだけ落ち着く。
「どうしたの、こちらにいらっしゃい」
「いや……それなら先に本人が出てきてよ! 知らないおじさんに『使いです』って言われてもついていかないって! 誘拐かと思ったじゃん!」
思わず本音が叫びとなって飛び出た。同時に周囲の兵士に睨まれて、慌てて両手で自分の口を塞いだ。
セレネはくすりと笑った。
「あなたはずいぶん用心深いのね。でも、正解だわ。自分の身を守るのは賢いことよ」
セレネは車内の革張りシートに腰掛けたまま、私に手を差し伸べる動きを見せたが、押しつけはしなかった。
「嫌なら乗らなくてもいいわ。あなたが納得してからでいいもの」
その言葉に、少し拍子抜けした。
強権を発動して強引に押し込められるかと思ったのに。貴族のくせに、ちゃんとこちらの意思を尊重してくれている。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
目の前の豪華すぎる馬車と、厳つい護衛たち。やっぱりまだ手足が震えるくらい怖い。でも――。
「……お菓子、本当にくれるの?」
「ええ。あなたが気に入るかは分からないけれど、いくつか用意させたわ」
セレネが柔らかく口元を緩める。
「……変なところに連れていかない?」
「しないわ」
「ちゃんと、おうちに帰れる?」
「私の名に誓って」
その言葉に、私はぎゅっと拳を握りしめた。
足はまだ少し笑っている。でも、約束を守ってわざわざ迎えに来てくれたんだ。
「……じゃあ、行く」
私は覚悟を決め、すり減った靴で、ピカピカに磨かれた馬車のステップへ足をかけた。
めちゃくちゃ怖いけど、命がけで食べるお菓子なら――きっと美味しいはずだ。
転生してから、まともにお菓子を食べていない私は食い意地に負けた。
書いていて途中で「あれ……?」となりました。
リリは前世が現代日本人ということもあって、知らない人について行っちゃダメ、知らない車(馬車)に乗っちゃダメと、防犯意識を発動させていたはずなんです。しかし、「お菓子あげるからついておいで」という、防犯ポスターの筆頭に出てくる常套文句に乗っかっています。
とはいえ、ここで断られたら話が進まないし、セレネとの接点も作れなくなってしまうので、食い意地には勝てなかったということで……と押し切ることにしました。お菓子の味を知らないならついて行かないけど、知っているリリはお菓子に飢えています。ギブミー砂糖です。
起承転結といいますか、話しの流れを考えるって毎回難しいなと思います。がんばります。




